食欲と食欲の文化的充足
このタイトルの言い方は、2007/04/06「なぜ『「こつ」の科学』なのか、そして押上のいこい食堂」で一度だけつかっている。まだ自分自身のなかで十分こなれていない感じなので、あまりつかってない。
それは、2006/06/07「コーミソースのドボドボ宴会」に書いた、昨年6月の「四月と十月」古墳部の旅の帰り、牧野さんたちと泊まった宿で、酒のつまみにいろいろな話をしていた、そのとき美術と生活の関わりといったようなことも話題になった。それがキッカケだった。
けっきょく、生活というのは生命をつなげる欲望の満足だ。人間のばあいそれを「文化的」に充足させる。食欲の満足は腹を満たすことであり、文化的充足とは味覚や楽しみだろう。味覚や楽しみのために、美術が縄文の昔から活躍している例は、縄文遺跡を見たあとだったことでもあり記憶に新しかった。もちろん性欲だって、文化的な充足が関係するとおもうのだが、それはまあ、おいとくとしよう。
そのとき牧野さんたちの話をききながら、美術系のひとは、けっこう生活をソースやリソースにして見たり考えたりするようだが、文術系のひとたちは、どちらかというと書物をソースやリソースにすることがおおいのではないかと、酔いがまわっている頭でフトおもった。
文術系のひとの手にかかると、街や料理まで、文学的な記憶で埋められることはすくなくない。そして、とくに働くこと、働く生活から、どんどん離れる。それに関連することは、2005/11/27「東京に働く人々」に書いたが、ずっと気になっていることなのだ。
ともあれ、そういうわけで、今年のコンセプトは「好食」だ、なんて書いたりした。いままた、『雲のうえ』3号を読んで、「食欲と食欲の文化的充足」は「仕事が好きか。生きているか。」に深く関係する、それは大衆食の根本ではないかと、あれこれ考えている。なにか、ひらめきそうだ。
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント