生活感、関係あるか荻原魚雷「古本暮らし」
ときどき「生活感」について考えている。「生活感」と「生活観」とか。それらと「経済観念」「経済感覚」の関係とか。「経済観念」のあるひとは「生活観」があり「生活感」があるという短絡や、貧乏な話でないと「生活感」を感じられない鈍感とか。もろもろ。もちろん、そこには「食」がからむ。
荻原魚雷さんが、最近『古本暮らし』という本を晶文社から出したそうで、その出版を祝う会の案内がきている。それをみて、また「生活感」を考えている。
「魚雷さん」という呼び方をしてしまうのだが、それほど親しい関係ではないと思うが、「親しさ」なんてのは「愛」とおなじようにスプーンで計るようには計量化できないのだから、まあいいのだ。
荻原魚雷さんのことについては、以前2004/09/11「BOOKMANな人びと・荻原魚雷の巻」に書いている。…クリック地獄
たいしたことは書いてないし、カンジンなことは書いてない。カンジンなことは、ね。魚雷さんは「生活感」のあるひとだ。「生活感」のある文章を書く。ということなのだ。すくなくとも、おれが魚雷さんに感じる魅力というと、そういうことなのだ。おれは「生活感」が好きだからね。
魚雷さんは「生活感」のあるひとだ。というのは、何度か本人と会って一緒に酒を飲んで、おれが、感じたことだ。
「生活感」のある文章を書く。というのは、『借家と古本』(スムース文庫)を読んで、おれが、感じたことだ。
だから、誰にも文句はいわせない。本人の文句だって、おれが感じたことなのだから、認めない。
ま、おれのようなブンガク的でも本好きでもない野蛮で下品なやつが、こんなことを書くと、ちっとも魚雷さんの宣伝にならなし迷惑かもしれないが、だって、そう感じちゃったんだもんね~。なのだ。
で、まあ、では、荻原魚雷さんについておれが感じる「生活感」とは何か? ということになるのだが、じつは、おれ、いま酔っているのね。昼の1時すぎ。酔っているけど中途半端で、もっと酔えば書けるかもしれないが、もっと酔うわけにはいかないので、それについてイマは書く気がしないわけ。
でも、簡単にいってしまうと、「生活のなかの」という言葉をアタマにつけてもおかしくない、ということなんだな。たとえば、「生活のなかの荻原魚雷」とか、「生活のなかの古本好き」とか、不自然ではない。そして、なおかつ、おれほどかどうかはわからないが、女が気にする存在だということなのだ。
飲み屋で飲んでいた。おれの前と隣には、「美人」といわれる女がいた。一人は独身、一人は人妻。その二人は、ゼッタイ、魚雷さんは離婚するとおもう、このままでおわらないわよね、何回結婚するのかしら、なーんて夢中で話していた。まるで、魚雷さんが離婚するのを期待しているかのように、そしてもしかしたらワタシとウフフフ、というような感情がにじんでいた。女ってのは、わからない動物だ。オイオイ、おれは、もうないのかと、おれはその話に耳を傾けているしかなかった。
ま、とにかく、おれはまだこの本を買ってないのだけど、「古本暮らし」というタイトルからして、そういう魚雷さんらしい。
では、その「生活感」とは、なんなのか、ってことを、また考えているわけだ。
たしか、魚雷さんは「自炊派」で、料理が好きだ。
と、『古本暮らし』のセンデン。になっているか? もう塩山芳明(『出版業界最底辺日記』著者)と南陀楼綾繁(『出版業界最底辺日記』編者、『路上派遊書日記』著者)の時代は、おわった。この二人は、単なる「蒐集家」で「生活感」がない、女にもてない。と、またセンデンしてしまったか。
こうしちゃいられない。
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