たよりない味覚
中国のお茶のようにたよりない熱意が彼女の表情に浮かんだ。
……「たより」に傍点。『さらば愛しき女よ』(レイモンド・チャンドラー、清水俊二訳、ハヤカワ文庫)より。
原文ではどうなっているのか知らないが、プーアール茶やフォア茶を思い浮かべ、ナルホドとおもった。ちかごろ流行の、ソバ茶も、おなじようなかんじだな。
「たよりない」だけではなく「たよりない熱意」とやったところが、なお巧みというか。食エッセイなどより、フツウの文学にチョロっと書かれた味覚表現のほうが、うまいばあいがおおい。おおくの食エッセイは、「舌」の感覚から離れて自由になれないウラミがある。書き手の想像力不足からそうなるのか、読者の想像力不足がそのように導くのか。サイテーなのはテレビの食べ物番組の味覚表現で、現物を画像でみせちゃうためもあるのだろうか、「たよりない熱意」すらかんじられない。あんなものを見ていたら想像力が退化するばかりだ。情報誌もヒドイけど、ヒドさの傾向がちがう。情報誌は「たよりない熱意」を型に流し込んだような、教条的官僚的な味覚表現がおおい。
最後になったが、引用文の「彼女」はアル中なのだ。
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