さいたま市与野の〔大衆食堂 横丁〕閉店
先月か先々月に、ここでチョッイ告知したが、かつての埼玉県与野市、いまのさいたま市京浜東北線与野駅から10分ばかりのところにあった、〔大衆食堂 横丁〕は四月一杯で閉店した。
きょう、もうきのうか、閉店を確認しにゆき、開くことのない閉ざされた扉のまえで、閉店を確認した。やっぱり閉店したのだ。「ゴールデンウィーク」があけたからといって、なにもかわらない。閉められた扉のまえに立ったところで、扉が開いてくれるわけではなかった。
さらば愛しきひとよ。
って、なんだか去っていった女を思い出すような感傷を抱えて、んじゃ、あたりばちラーメンで、あのラーメンとギョーザをガツンと食べるかと、近くのあたりばちラーメンへ行った。
酒を買って帰って来て、飲んだ。
今回の、〔大衆食堂 横丁〕の閉店は、大都会の土地問題というか、日本の資本主義体制の根本にある非資本主義的な土地制度と都心一極集中制度というか、その構造というか、そういうものを象徴する。大衆食堂を含めた零細自営業者が、意欲があって、文字どおり身を粉にして働いても、この土地制度があるかぎり避けられないモンダイ。それなのだ。
それを、大衆食堂は古い過去の古きよき昭和と懐かしみながら、そのモンダイにふれないで、大衆食堂を「昭和博物館」入りさせるような、レトロブームだの懐古趣味?だのは、あるいはそういうところをネタにして食べ飲み歩き?はしゃいでいるだけというのは、結果的に大衆食堂が失われていく土地制度の延命に手をかすようなものではないか。
「再生」のありえない土地制度の構造下で、「再生」を唱えることこそ笑止であり、「昔はよかった」なんて、もちろんデタラメの陳腐のクソだ。このイマは、その「よかった昔」に土台がつくられている。その上に、いまワレワレはいるのだ。そうではないのか。
その土台を変えないかぎり、自分には責任がないような顔して、懐古しているあいだに事態は、どんどん悪化するだろう。ま、おれは何度か書いたように、構造的な瓦解まですすむとみている。それ以前に自ら変えよう変わろうなんていうことは、近年の趨勢をみれば、ありえない。キレイゴトをいいながら、消費し食いつぶしていくだけだ。ま、それが「東京最終荒野論」なのだが。キレイゴトばかり、いってるんじゃないよ。
と、酔いにまかせて書きなぐったところで、去った女がもどらないように、閉店した大衆食堂がもどるわけではない。
ただし、〔大衆食堂 横丁〕は、この住みなれた常連もいる、与野駅周辺でやれる場所があれば、やる気でいる。モンダイは、そこなのだ。
10年前、さいたまナントカ都心開発で与野駅前の再開発があって、〔大衆食堂 横丁〕の夫妻が働いていた大衆食堂は閉店になり、かれらは商売の立地としてはマッタクよくない、この場所を居抜きの10年契約で借り開業した。不況の真っ只中、どうなるかと思ったが、とにかくなんとか、その10年契約の期間、続けられた。生きてこられた。だが、その10年契約が切れるときがきた。
10年の間に、どこかのテレビ局、愛の貧乏脱出だのなんだのという尊大な番組から、どうだ出演しないかといった話もあったりしたが。
ああ、酔っているのか、書けない。
画像を一枚。これは、えーと、これは、2002年10月30日に横丁で撮影した。その日、開店早々に入ると、カウンターで女将が、これをやっていたの。おれは一瞬、目を疑った。まさか、コレ、アレ、だよね。そう、サツマイモのツルだよ。
その細いツルの皮を彼女は、働き者の太い指でむいていた。右のザルが、皮をむく前のもの、左のザルが皮をむいたあと。右隅うえに彼女の手が写っている。これは、皮をむいて、キンピラにする。「甘味があって、おいしいよね」と、おれより10歳ぐらい年下の彼女はいった。うーん、そりゃマそうだが、いまどき、サツマイモのツルを、めんどうして食べるとはなあ。おれは彼女の故郷の高知を思いながら、どんなふうに育ったのか考えた。
ま、きょうは、もうまもなく午前2時ですからね、こんなところでオシマイ。
愛してるよ~。
ザ大衆食の「大衆食堂 横丁」……クリック地獄
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
あらためて気がついたのですが、
熊谷真菜さんは「おいしく食べるという営み」
という表現をしていますね。
「その人がたまたまそういう人であっただけで、
呑んでいて楽しくて話が弾んだ」
これ、けっこうキホンですよね。
愛しているよ~、なんだけど、
去られ振られ逃げられることもある。
ままならないのが、この世だから、
愛しているよ~、を続ける。
投稿: エンテツ | 2007/05/08 12:38
公共の福祉のもと多数派の正論という大前提で全てを解決する事に仕方ないと諦めてしまい、のみこまれてしまう。それがいいとされると都合良さだけで同じ方向にむいてしまう。だけどそこからこぼれ落ちてしまう事だってある。もっと悪いのは形だけになってしまうのが残念。
遠藤さんがいつか書いておりましたが。美味しい酒を呑むのではなく、酒が美味しく呑めること。
その人がたまたまそういう人であっただけで、呑んでいて楽しくて話が弾んだ。
などなど。『愛してる!』でいいですよね。
投稿: スコッチエッグ♂ | 2007/05/08 06:05