1974年の暑い熱い夏
宮澤喜一さんが亡くなった。来月は参議院選挙だ。なので、1974年の夏の思い出だ。
えーと、おれは、30歳ってわけか。1974年の7月7日は「七夕選挙」といわれ、参議院選挙投票日だった。その投票日の一週間前ぐらいに、おれは自民党本部の幹事長の会議室にいた。1974年の6月30日か7月1日のことかもしれない。
おれを含め、たしか7つの選対事務所の責任者がいたはずだ。その選対を直接統括する、のちに建設大臣などをやり亡くなったS代議士、そしてこれも故人である「田中の金庫番」といわれていた橋本幹事長。
この顔ぶれの会議は、それが3回目で最後だったと記憶する。投票日を一週間後にひかえ、各候補の宣伝カーを、どこに配置するかが主要な議題だった。簡単に言ってしまえば、橋本幹事長が、自派の田中派の当落線上にいる候補者に有利に配置させるための会議だった。
おれは、会議のときは、いつも最上席だった。それはおれの「実力」ではなく、おれの担当する候補者が「大物タレント候補」だったからにすぎないが、おれのすぐ右隣は幹事長だった。ベッコウの太いふちの眼鏡だったと思う、いかにもロンドン仕立てですという黒に近い濃紺のスーツ、いかにも高そうなピカピカに磨き上げた黒い靴、そして手には高そうな葉巻。
その日、おれは幹事長に大きな目でギギギギギッと睨みすえられながら、おれの選対のボス責任者がおれに指示したように一歩も引かず、幹事長が指示する宣伝カーの配置に激しく抵抗し、最後まで受け入れないで会議は終わった。ほとんどは、幹事長とおれとの応酬だった。それが幹事長を見た最後。それ以来、自民党本部に入ったことはあるが、幹事長室に入ったことはない。
おれが、なぜそこでそんなことをしていたか。それは、以前に少し書いている。2006/09/10「いつだってテロル」…クリック地獄
その、参議院選挙は、もしかすると保革逆転かもしれない「保革伯仲選挙」といわれ、自民党と財界は二つの方法で、それをしのごうとした。一つは、集票力のあるタレント候補、一つは「企業選挙」といわれたが候補者ごとに応援する企業を割り当て全社を挙げての体制を組む、ということだった。
で、タレント候補は全部で7名だったと思う。みな全国区。そのなかでも「大物タレント候補」といわれ、トップ当選まちがいなし、200万票をこえる票がとれるかどうか注目された候補がいた。おれは、その選対を代表して(イチオウ選対の副責任者ということで)、その会議に出ていたのだ。
他の選対からの出席者は、みな責任者が出ていたから、50歳代60歳代の貫禄ある人たちばかりだった。そのなかでおれだけが痩せた貧相な30歳の若造だった。しかも上着だけは着ていくようにいわれていたのでそうしていたが、ノーネクタイにジーパン姿。
初めての顔合わせの会議のときには、おれの隣にすわった幹事長が、おれをチラッと見るや不審もあらわにS代議士を手招きし、おれにも聞こえる小声で「この男は」ときいた。S代議士は、声をあげて笑い、「大丈夫です、○○選対の××さんがまかせているひとですから」というようなことを言った。S代議士とおれは、すでに何度も会っていた。幹事長は、またおれを見て、貫禄をつけた低い声で「よろしく頼んだよ」といった。
当時の政権は田中角栄と大平正芳の、つまり田中派と大平派が主流派の政権だった。大平派は、宏池会という池田勇人がつくった派閥組織を大平正芳が継承したものだ。自民党のなかでは独特の、当時としては「政策通」の多い集団だったといえる。代議士や代議士に所属する秘書のほかにも、宏池会に直接所属する秘書がいて、自民党的ムラ社会ではあったが、それだけではなく理念や政策をともにする理想に燃えているところがあった。
チトひいきめの言い方になっているかもしれないが、いわゆるテクノクラート型の政治家のいない日本で、テクノクラート風をめざしている人たちが比較的おおい派閥組織だったいえるだろう。そんなわけで選挙も、カネや利権や後援会組織に頼るだけではなく、理念と政策を直接大衆に訴えることをしようという意気込みも強かった。
他の派閥と比べると、大衆ウケする政治家的なハッタリがチト弱い。ボス連中は、大平正芳もそうだし、そのあとの鈴木善幸、そのあとの宮澤喜一もそうだが、顔はイマイチでドンくさい。でも見かけによらず、紳士的でスマートな人たちが多かった。やたら強引に威張ったりすることなく、利権的などろくさい話はなくはないが、政策的な展望を持ち、よく議論したり会話を通して解決していこうという姿勢があった。
大平正芳さんと鈴木善幸さんには会ったことあるが、宮澤喜一さんは、会ったことがない。宮澤喜一は、まだ「ニューリーダー」という呼び方はなかったと思うし、のちに竹下登とならんでニューリーダーといわれるようになるが、すでに派閥の中では将来の総裁まちがいないといわれていた。おれは田中派の人たちとも付き合いがあったが、田中派にあっては、竹下登が、おなじようにいわれていた。
おれが、その大物タレント候補事務所に出向になったのは、投票日の3か月前ぐらい、たしか3月ごろだったように思う。公示がせまってくると、いわゆるウラ選対の仕事がふえ、一晩おきに事務所に泊まる体制になった。
モンダイは、その大物タレント候補が、田中派と大平派が激しい争奪戦の結果、大平派から立候補したことだった。しかも、企業選挙として割り当てられた企業が、こんにち巨大利益をあげている某自動車メーカーの販売会社組織で、ここは田中派の牙城だった。それがどんなにメンドウなモンダイをはらんでいたか。当面の参議院選挙の得票数は、次期の衆議院選挙とそれにからむ総理総裁争いにからんでいたのだ。
とにかく、そんなわけで、わが事務所のボス責任者のシモさんは、たしか58歳で、いわゆる選挙参謀としてはベテラン、頭のよい人だった。田中派がからむメンドウなところには、おれを副責任者として派遣して難を逃れていた。でも、この人は、たしかに頭はよく、おれをただその状況にほおりこむのではなく、状況や相手の出方、ゆずってはならない点やいくつかの対策を、よく説明してくれた。おかげで、おれは苦労したけど、いろいろなことを学んだ。
目標得票数を獲得して当選した。
暑い熱い夏だった。
ああ30歳、運命のわかれ道。おれが、カネでもなんでもいい、もっと何かに執着するところがあったら、もっとグレイトでアクドイ悪いスバラシイ、女にふられたぐらいで思い悩むことない、人生を送っていたであろうに。
あのあと、おれには秘書になる打診があった。おれはまるでその気はなく、知り合いの20歳ばかり上のウエさんが秘書になった。彼とは、よく飲んだが、すでに彼は糖尿病を持っていたし、秘書の激務が務まらなくなり、ある団体の役員に横滑りし、やがて亡くなった。大物タレント議員は、そのあとも出馬し当選したが、顔がパンダに似ていたことから「票集めパンダ」と陰口をたたかれながら亡くなった。彼の人生を考えれば、国会議員なんかにならないほうがよかったかも知れない。すでに、人気者というだけではなく、高い社会的地位にあったのだし、奥さんは、子供はいない家庭の二人だけの静かな幸せを願い、出馬には、ものすごく反対していたのだが。
あのときのタレント議員で、いまでも残っている議員がいる。山東昭子さん。やはり、女は強いのか。
イチオウ政治改革とやらで「政策秘書」なる制度もできたが、あいかわらず闇の利権政治がはびこり、そして、あいかわらずタレント議員で数合わせするようなことが続いているのだなあ。
さあ酒でも飲みに行きましょうか。
この仕事は、大手広告代理店のD通とのジョイントベンチャーだった。当時、D通では「販売促進本部」というような名前の部署が選挙を担当していた。D通からは、ヤタさんが出向で来て、主にアナウンス嬢の訓練をやっていた。
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