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2007/06/14

偉そうな旗手になりたいのか、楽しみたいのか

食の道楽を非難するつもりはない。道楽は道楽らしく楽しめばよいと思う。「手づくり」礼賛もよいだろう。

しかし、近代文明批判や、市場原理批判や、産業社会批判や、昭和礼賛や、ともすると縄文礼賛といったことをやり、自分が、あたかも「正統」な食文化の旗手や守護神のごとき表現をするとなると、話はちがってくる。もちろん、それはそれでよいのだが、それなりの根拠のある主張でなければならない。

たとえば、むかしの手動ではない、そのあとのモーターで氷かきを回転させる最初の方のタイプと思われる機械でつくった「かき氷」を食べ、「いまの効率優先の機械では、こういう味は出ない」といったことをいう。その氷の味がどんなであるかの説明もなく、そのように、「いまの効率優先の機械」が非難され、「一口食べて見る。ああ、昭和の子供時代のなつかしい味」でおわる。

これは、食べ物の話なのか。それとも「昭和道楽」の話なのか。いったい、その「昭和の子供時代のなつかしい味」とは、どういう味なのか、「いまの効率優先の機械では、こういう味は出ない」と言い切る根拠がほしくなる。

もしかしたら、単なる自分の好みにすぎない、つまり自分の味覚が「いまの効率優先の機械」になじまない、というていどの話を大げさにし、機械文明批判のような高邁な精神を謳うことで自分を偉そうに見せようとしているのではないかと誤解したくなる。

いや、ご本人が食べ物の話をしているつもりはなく、食べ物をネタに効率優先批判を展開したいのであるなら、それはそれでよいが、それなら、べつの矛盾がでる。

つまり。そのモーターをつけた氷かきの機械そのものが、それ以前の手動のものと比べたら効率化されているのではないか。それは、味覚を優先してそうなったのではなく、効率を優先してそうなったと理解するのが妥当ではないかと思うが、ちがうのだろうか。

そもそも、昭和という時代、戦後だろうと戦前だろうと、食の分野で「手づくり」が中心であったのは、効率を否定し味覚を優先していたからではない。機械化効率化するだけの、さまざまな条件や能力に欠けていたからにすぎない。だからこそ昭和の時代は、機械化効率化に憧れと優越を抱いて、工業化近代化にまい進したのではないか。たくさんの「地上の星」を生んだのだ。

昭和の手づくりは、「手づくり志向」によるものではなく、手づくりを必要とする環境がもたらしたものだ。昭和でも1970年代以後、多くの庶民が機械化効率化の恩恵に浴してから、それと相対的に「手づくり志向」が脚光を浴びた。つまり、機械化効率化の恩恵と手づくり志向は相対関係にある二本の足であり、片方を否定しては成り立たないものだというのが実態だろう。そこをよく認識する必要があるのではないか。

なにしろ、「いまの効率優先の機械」を批判している本人が、その話を、機械化効率化競争の極地ともいうべき、インターネット上でやっている。自宅には、冷蔵庫も洗濯機もあり、クルマもあるかもしれない、新幹線や飛行機も利用することがあるだろう。かき氷の氷だって、天然のものではないかも知れないし、天然のものだとしても、流通過程ではさまざまな機械化効率化が貢献しているだろう。たいがいの家が、電気釜を使っているだろう。生きていくための米づくりは、田植え機やコンバイをぬきに成り立たない。

現代の「手づくり志向」は、そのように、機械化効率化と一体のものとして考察すべきで、片方を否定することは正しい実態認識とはいえない。歴史と現実の否定につながりかねない。

それから、たしか、どこかで見たのだが、いまの機械化されたかき氷は粗くてシャキシャキしていて、むかしのようにフワフワでないからおいしくないというような話がある。それは、自分の好みの話としてならわかるが、機械化の否定の根拠にはならないだろう。おれの記憶では、むかしの手動式のころは、フワフワではなく氷のシャキシャキがそのまま伝わるような粗いものもけっこうあった。そのあと、モーターで動かすようになって、安定したフワフワが実現したのであって、その前の「手づくり」は、じつに粗っぽいものだった。もちろんそれは、「手づくり」であるがゆえに、作り手によってイロイロだった。フワフワがアタリマエのうまさとはいえなかったと思う。コンニチの機械化は、機械の調整によって、「むかし風」の粗っぽさを演出できるようになった。それも「懐かしい味」といわれるようになった。だが、むかしそのままではありえない。そういうものだと思う。

そういう「事実の認識」が、機械化効率化批判のなかで、正確に行なわれず観念的なオシャベリになってしまう。だから、もちろん、それは道楽ならよいのだ。道楽なら、偉そうに文明批評めいたことは口にせず、楽しんでいればよいのである。

おれは、道楽で「大衆食」と向き合っているつもりはなく、生活として向きあっているつもりだ。ようするに生活を楽しむということだ。それは道楽で食を楽しむというのとは、またチト違うと思っている。自分のために自分の台所でつくる楽しみが最高である。時代に即した手づくりは、そこで行なわれ、取捨選択されていくだろうと思っている。外食の場では、いろいろな経済産業的要因や生活的要因が関係するから、複雑だ。手づくりは、能書きではなく、自分でやることだろう。ま、本日は、ここまで。

あたふた流行の言説にふりまわされることなく、
ゆうゆうと食文化を楽しみたい。

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