もっと自信をもってやったらどうかと思う
はあ、なんとか、書いた。原稿のためにこんなに疲れるなんて、めったにないことだ。脳を搾りきって、カラカラなかんじ。アルコールを口経由でなく、いきなり脳に注入したい。
今日しめきりの書評のメルマガの原稿。きのう書いたように『食卓の歴史』を取りあげた。いつもホボ自分なりに本の内容を消化したなという感触を持って書くのだが、今回は、かなり以前から何回も読んでいるにもかかわらず、若干消化不良だなあという思いが残ったまま書いたかんじだ。だから、疲れたのだろう。
しかし、この本は、いろいろ考えさせられる、いい本だ。服部ナントカだのといった、食育だのなんだのと大声をあげているやつらは、こういう本をキチンと読んでいるのかね。ちかごろ「ニセ科学」が問題になっているが、食については「ニセ」が多すぎる。ま、またまたイイカゲンな食育論者を痛めつけるネタができた。慣れ親しんだ手づくりや自然のナマの味は、普遍的にイチバンうまいという、根拠のない「信仰」をからかうこともできるぞ。楽しみだなあ。
それにしても、日本は、バブルのころからB級グルメがはびこり、「ラーメン評論家」をはじめ、いろいろな「評論家」が跋扈することになった。これは、「大衆文化状況」として考えると、どういうことかというと、ようするに、自分に自信のないひとが増えたということなんだな。
こういうときにこそ昭和を思い出すべきで、昭和のころには、「評論家」なんてのは、口先だけでなにもできない能無しの見本みたいなもので、大衆は「けっ、評論家なんざあ」という気概や自信があった。その状況が変わり、評論家を奉り群がるようになったのは、バブルとバブルの崩壊を経過してからなのだ。いったいそこに、なにがあったのか、あるのか。
みんなが、もっと自分に自信を持っていいのではないか。そういうことまで、考えさせられた。ま、みな、けっこう口先だけは自信がありそうなんだけど、「簡潔な美しい文章」みたいに洗練された整った環境の中でのことだからねえ。荒野の中でのガイドのない生き方めしの食い方でしょう、モンダイは。
組むにメンドウな一冊の本と格闘したあとは、とりわけそう思う。この本は、翻訳本としては読みやすいほうだと思うけど、おれの脳にあったこれまでの「常識」のいくつかを破壊する作用があって、それを納得あるいは理解するのに自己変革のようなエネルギーが必要だった。もしかしたら、自信というのは、オイシイ好みのものだけを選ぶのではなく、マズイ異質なものに取り組むことによって育つのかもしれない。となれば、あのバブルから、なにが自信を失わせたか、想像つくだろう。
うーむ、おれは強くなったぞ。って、もうこれ以上強くなる必要はないか。酒。
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