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2007/07/31

四月と十月古墳部東北縄文の旅。帰ってきた。

Kohun_120_dogu昨夜、無事に帰りました。今回は、四月と十月古墳部東北縄文の旅。とりあえず大雑把な行程を書いておく。詳しくは、あとで。

25日水曜日、先発三陸コース組に参加、東北新幹線新花巻経由で岩手県釜石へ。牧野伊三夫さん、川原真由美さん、ゲストで初参加のカモイさん、おれ、新花巻で瀬尾幸子さん合流。

26日木曜日、釜石から三陸海岸沿い鉄道、宮古、久慈を経由して各駅停車で約6時間、青森県八戸着12時少し前。八戸駅で12時5分、後発新幹線組、スソアキコさん、久家靖秀さん、畑井友和さん、小山牧子さん、そして飛行機で三沢経由の伊澤さん(すまん、名前思い出せない)、合流。レンタカーに分乗、是川石器時代遺跡・縄文学習館、八戸市博物館で風張遺跡発掘品など。八戸駅前温泉旅館泊まり、宴会食事は、あの、番屋。

Kohun_145_taiyousou27日金曜日、早朝、北海道から参加の稲村さおりさん旅館に到着合流。市場の大洋食堂で朝食のち秋田県大湯環状列石(大湯ストーンサークル館)、縄文土器づくりを体験する。日景温泉泊まり。宴会食事のち卓球大会(伊澤さん優勝)のち宴会。

28日土曜日、早朝伊澤さん帰京。太宰治記念館、十三湖、亀ヶ岡遺跡・木造町縄文館。鯵ヶ沢温泉山海荘泊まり。居酒屋じょじょ長屋で宴会食事。ワイマールでカラオケ大会(おれサマが優勝)。

29日日曜日ホテル朝食後出発。三内丸山遺跡と隣接する青森県立美術館。青森駅へ。北海道へ帰る稲村さおりさんのお別れ昼食会。13時すぎ、青森駅から稲村さん北海道へ帰る。おれだけ青森駅周辺のアオガ市場やジャンクな風情を散策のため残り、みなはクルマで八甲田の温泉経由、八戸へ。八戸駅で合流。18時発の新幹線に乗り、おれは盛岡で下車。盛岡泊り。魚貝を食べ続けていたので、ひさしぶりに焼肉、冷麺といった毛色のちがうものをたべ、マッコリなど飲み泥酔。

30日月曜日、めったにない忙しい最中のサキナガさんと会い、盛岡市内を案内してもらい散策。じゃじゃ麺などを食べ、加賀谷真二さんの喫茶店cartなどに寄り楽しくおしゃべり。夕方の新幹線で帰る。

Kohun_174_doki_2やはり、三内丸山遺跡は圧巻だった。規模内容とも想像以上。大湯環状列石は不思議だ。縄文土器づくりを体験してみてわかったがけっこういろいろな技術が必要で、手先の器用さだけではない。縄文人の文化レベルの高さを実感した。

毎日毎食のように魚貝、とくにホヤをよく食べた。もちろん、よく飲んだ。カラオケ大会の優勝は思わぬことだったが、どのように優勝したかは後日書く。

7月16日出発の北九州行きから始まり、23日と24日をのぞいて続いた旅の空は、とりあえず一息ついたかんじだ。やはり、少し疲れたな。めずらしく、ちょっと風邪気味だ。

とりあえず、ゆっくり寝ておきて、あとで詳細を。
みなさま、ご苦労さまでした。
サキナガさん、お忙しいなか、ありがとうございました。
急ぎでないメールなどは、のちほど返事いたしますので、もう少しお待ちを。

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2007/07/24

北九州市折尾の高橋酒店角打ちに顔がほころぶの図

小倉に着いた17日の昼下がり、折尾地区へ行った。いまでは八幡西区になる折尾は、北九州市の古い地図を見れば、門司、小倉、八幡、戸畑、若松とならんで北九州の近代を代表する地名だ。かつて、奥地で掘られた石炭は、ここを通って積出港に運ばれたことから、東西南北を結ぶ交通の要衝となった。

0707_orio1JR折尾駅は、まだ昔の佇まいのままだが、例によってJRは、こういう駅舎は無くす計画らしい。その駅を背に立って右手(画像左手)に、川と川に沿った飲食街がある。川の名は堀川。用水として整備された川で、ここを石炭を運ぶ船がのぼりくだりした。

0707_orio2川沿いの飲食街には「鶴の湯」という銭湯もある。とくにこのあたりは学校が多いので、生徒学生を相手の安い良質の食堂や餃子の店などがある。ワレワレが入った二軒の食堂にも、高校生がいて旺盛な食欲を発揮していた。そして、「企画整理反対」の看板がアチコチに。ああ、いずこもおなじ経済優先と金銭欲の「開発」の手がここにも。経済優先や金銭欲より、安いうまい飲食がある日常を大事にしたいものだね。

それはともかく、その川沿いに大正ヒトケタ開店の建物で営業の角打ちの有名店「高橋酒店」がある。今回のおれは食堂のロケハンなので、一日にまわる予定の食堂を終えるまでは酒を飲まないようにしようと自粛していたのだが、みながすすめるのでシカタナク、食堂の立地を知るという意味で入ってみることにした。なんて、もったいつけて。

0707_orio3画像の若旦那と話しながら飲む一缶だけの缶ビールのうまかったこと。画像はないが、おばあさんと呼ぶには若すぎるおばさんがすばらしい。缶ビールをあけているあいだに、つぎつぎ男たちがやってきては、若旦那やおばさんと楽しそうに言葉をかわし、あるいはさっと飲み、あるいは腰をすえて飲み、生きている時をきざむのだった。高い天井、壁面をうめる木彫りの額、大正から続く空間、若旦那は「うちはアナログでやっていますから」といっていたが。いいねえ、思わず顔がほころぶ。けっきょく、こころに残るのは、アナログな関係なのさ。

ちかごろのレトロブームの装置として「再開発」された空間には、アナログな歴史もないし、アナログな歴史を抱えた人間もいない。北九州でアナログな歴史や人生、アナログなめしや酒にふれてみよう。この夏、いまからでも遅くはない。

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2007/07/23

食堂は観るものなのか。北九州市の食堂のある風景。

17_2_1まだ作業は始まったばかりなので、詳しいことは10月25日ごろまで待っていただかなくてはならない。予告という意味で、この一枚の画像。店名はボカシ入りにしたけど、この前に立ったときは、はあ~とタメイキがでましたね。むかって左側は海岸の倉庫街が続く。めしをくわなくても、この景色を観るだけでもよい。ググッとくる、血が騒ぐ、北九州の食堂を、お楽しみに。

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北九州市で平民のめしをくらう

Moji_heiminとりあえず無事に帰ってきた。身体をいためつけるように、よく食べ飲んだ。朝から晩まで動きまわり街を歩き回りビッシリ組まれた日程をこなし、ほぼ毎日朝8時半から夜11時半すぎまで、飲み食いした店の数50をこえる。60歳を過ぎて体力が持つか大丈夫かと自分でも心配だったが、まったく問題ナシだった。用意しておいた胃腸薬も一回飲んだだけ。

簡単に整理しておこう。16日月曜日、故郷の新潟で大地震があった日だ。出かけるしたくをしているとクボシュンさんから電話があった。このあいだの地震のような揺れだったと。東京駅に着くと、混乱と混雑。18時3分発の寝台特急「ふじはやぶさ」に乗る。シングルルームというのか、ようするにA個室。横浜で、牧野伊三夫さんが隣室に乗車。ただちに2人で酒盛り開始。寝たのは23時ごろか。

17日朝、目が覚めたら、瀬戸内海の島々が見えるあたりを走っていた。眠っているあいだに通過した米原へんで雨のために30分以上遅れ、さらに門司駅で遅れ、最終的に小倉駅に着いたときには約1時間遅れの10時ごろだった。まずは7,8番ホームの立ち食い「かしわうどん」。そして迎えの関係者の方の案内で、ただちに食堂へ。それから、怒涛のごとく食堂めぐり、八幡西区戸畑区若松区を中心にひたすら食べる。19時ごろ食堂の部は終了で酒の部に。城野の河口屋で角打ち、牧野さんと友人たち、のちもう一軒はスナックだったと思う、たぶん24時ごろ泥酔記憶なし状態でホテルに。

18日朝、前夜飛行機で小倉入りし同じホテルに宿泊していた大谷道子さん合流。ただちに24時間営業の大衆食堂へ朝飯を食べに。八幡東区戸畑区若松区を中心に、さらにまた食堂めぐり、食べる食べる。夜の酒の部は、さすがに疲れたので2時間ばかりでおわり。

19日も、小倉南区小倉北区を中心に、ようするに朝から食べた。予定していなかったNHKの収録があったりで時間をくい、酒の部は22時ごろからになってしまった。でも、飲む。

20日は門司港の食堂まで行って朝食。関門海峡そばのおでんやで、前夜到着し同じホテルに宿泊していた有山達也さん合流。門司区、門司港中心に食べる食べる。ついに念願の「平民食堂」と出会うが、残念ながら「しばらくのあいだお休み」の貼り紙。夕方1時間半ばかり、これまでの下見の結果をもとに、まとめかたの相談。議論白熱しかかる。いいかんじの盛り上がり。夜の酒の部、24時近くまで飲み、泥酔記憶なし。

21日、戸畑区八幡東区を中心に朝食から食堂まわり、午後有山さん帰京。16時近くから19時ごろまで小倉祇園太鼓競演会を見物。力強い太鼓が、すばらしい。のち、牧野さんの中学同窓飲み会に参加し田口さんと昨年1月の古墳部旅行以来の再会。24時ごろ抜けてホテルにもどる。夜遅くまで街中が太鼓の音でイッパイの日。

22日11時ごろホテルをチェックアウト。まわり切れなかった食堂の中から近いところを選んで昼飯。西小倉駅前周辺を下見。30分ほど小倉祇園太鼓の据え太鼓競演会を見物。牧野さんとわかれ、大谷さんと北九州飛行場へ。16時25分発のスターフライヤー。羽田で、軽くビールと食事で、まだ先は長いけど、とりあえず、ごくろうさま。

たくさんのみなさんのお世話になった。
とくにクワモトさん、お世話になりました。
といっても、まだ始まったばかりなのだ。
はて、この結果は、どうなるか。いまのところは、いいかんじで進行している。だが、まだ先は長い、暑くもなるし。
まずは、まもなく、7月25日発行予定の「雲のうえ」4号をごらんください。4号は「島」の特集。そして5号の「食堂」の予告があります。問い合わせ先…クリック地獄

北九州市にはいい食堂がたくさんある。「大衆食堂」の看板も多かった。平民労働者と土地の生活が息づいていた。

当ブログ関連……2006/11/16「北九州市「雲のうえ」の素晴しさ」……「日々の暮らしや街の表情からみれば、北九州は、方々で急速に消滅しつつある土地のにおいや陰影といったものを、まだ残している。地理や歴史がつくるひときわ濃い風土が、血や肌に熱を感じさせる。他に類のないこの風貌のなかに酸素を送りこみ、魅力的な未来を築く方法はないだろうか」

Ekimae

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2007/07/15

ああラーメン 時の流れ

「渡辺樹庵のここだけの話「ラーメンコンサルタント・渡辺樹庵の独り言。」で2007年07月15日「げんこつ屋事業停止」を見た。…クリック地獄

「ラ博にも入っていたほどの、東京を代表する(代表した)お店の落日を見ると、なんだか時の流れを感じますね。」と書かれている。

フム、この「時の流れ」って、イッタイ、何の流れなのか、考えさせられた。味覚文化? それとも単なる消費主義的流行? それとも……。でも、実業のげんこつ屋は、挑戦しなかったより、してよかったかもしれない。でも、そんなロマンチシズムでは片付けられないことがあるかもしれない。

その点、虚業界の、メディアが棲家の評論家やジャーナリストやライターは、気楽、かもしれない。だから、みな本を出して、評論家やジャーナリストやライターになりたがるのかもしれない。

しかし、虚業界だって、実業のラーメン屋とむかいあっているひともいれば、実業や生活とはむかいあわずに虚業の作品や表現、たとえばブンガクやオンガクについて能書きたれて虚業の共食い的にやっているひともいる。

どうもおれからみると、後者より、前者のような「ラーメンコンサルタント」のほうが、まだ真摯であり責任感があるような気がする。すくなくとも、ハヤリの食を、エッセイやブンガクやアートのネタにしながら「文化人」「有名人」に成り上がる足がかりにしようとしているようにみえる連中より、はるかに真摯だろう。「下町」を話題にしてさえいれば、庶民的良心的人情家なのよ能天気より、はるかに深いだろう。渡辺さんの「ちょっとショックです。」は、ひかえめな表現で、けっこうショックだろうなあと思った。

おれはショックなんかないが、考えさせられた。

検索すると、以下のような記事があった。現実とは、こういうものだ。そして、これは、一年に約3万人の自殺者、ということは、365日で割ると一日平均約8名ということになるが、その数字と同じかどうかはしらないが、よくある生活の現実なのだ。それが、なぜか、一日平均8名もの人間が自殺していることが実感としてないように、実感としてないのではないだろうか。いまや、自殺や倒産は、はなばなしい年間約1万人ほどの死者の交通事故ほどにも注目されない。もちろん、夢や希望や勇気を恵んでくれるらしいベストセラー本やアーチストのライブや下町人情酒場の話題などより、はるかに軽い。でも、挑戦や冒険がなくなったら、ツマラナイ。それに、知ったかぶりして、ひとのやりようやさまを切り刻んでネタにして食べている人たちも困るだろう。

気どらず、力強くめしをくい生きることだ。

東経ニュース新着情報
http://www.tokyo-keizai.co.jp/tosan/17.html

2007/7/6 (株)げんこつ屋~事業停止、弁護士一任

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この記事は「News ASNA(アスナ)」号外より抜粋したものです。
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業  種  飲食店経営
所 在 地  東京都杉並区阿佐谷南2-16-6
登 記 上  東京都杉並区成田東4-23-12
設  立  昭和56年5月
従 業 員  50名
資 本 金  3000万円
年  商  (18/4)12億円内外
負債総額  推定15億円内外

平成19年7月2日に事業を停止し、事後処理を楠 純一弁護士(東京都千代田区九段北4-2-11、TEL03-3262-3550)に一任した。
昭和56年5月に設立されたラーメン店の経営業者。『げんこつ屋』の名称で都内を中心に約15店舗を設置し、ピーク時の平成14年4月期の年商は15億6,900万円を計上していた。
しかし近年は、業容拡大の一方で同業との競争が激化し、18年同期の年商は12億円まで減少していた。さらに新規出店や材料工場設置に伴った借入が膨らみ、金利負担が収益を圧迫。このため不採算店の閉鎖などを進め収益の改善を図ったが、資金調達も限界に達し今回の事態に至った。
負債は推定15億円内外。

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入道雲を見よ! サビ抜きの寿司のような「懐かしい昭和ブーム」。

Ryousei2台風どうなるのだ。予定があるから困る。と、自分で決められないことを気にしてもしょうがない。なんとかなるだろう。

なんだかエクセルに開眼してしまった。というのも、次々に届く資料がエクセルなのだ。これが、すごくうまくできているのだなあ。で、おれもエクセルで資料をつくってみようとやりだしたら、けっこうオモシロイ。すっかりはまってしまった。パソコンの使いみちが、また一段と開けたかんじだ。

なんでも自分でやってみることだな。「スローライフ」って、そういうことだな。どいとゆあせるふの精神。ひとに頼んだり聞いたりすればカンタンにすむことでも自分でやってみる。だけど、コンニチの世の中は、スピードが勝負ということになっている。急ぐから、誰かの情報や知識を頼りにしなくてはならない。でも、あわてることはないのさ。どいとゆあせるふ精神でやったことは骨となり血となり肉となる。自分はやらない手づくりを礼賛し、ドーダドーダと、ちゃらちゃら自慢げに情報や知識をひけらかしたがるやつらが色あせてみえる。

ま、それで、ロケハン一週間、ホンバン取材一週間、それから原稿書きの長丁場のオシゴトの準備は着々とすすみ、しだいに尻にも頭にも火がつき肉体は燃え上がっているのだが、それとはべつの企画で、いまの「懐かしい昭和ブーム」を考えさせられることがあった。

Ryousei1詳しいことは、そのうちにして、結論だけ書くと、ようするにいまの「懐かしい昭和ブーム」に決定的に欠けているものがある。それは東京人になりきれなかった田舎者のおれがかんじることかもしれないが、はやい話が、鈴木漁生さんの世界だ。このたび、あらためて思ったね。鈴木漁生さんの作品、『漁生の漫画家残酷物語』『漁生の浪漫戦記 青春の墓場』『漁生のヒーローグラフィティ60's』の三冊の傑作集を、ほぼ一人でまとめ刊行した幻堂出版のなかのしげるさんは、すばらしい。これは、なかのしげるさんの偉業だ。こういうのを偉業というのだろう。

昭和30年代といえば、まだ就業人口の3割ぐらいは農業のはずだ。工場労働者を含めた労働者は7割ぐらいはいたのじゃないかな。全人口の半分ぐらいは農村部だったとおもう。サザエさんや3丁目のナンタラのような山の手をモデルにした「東京の侵略」がいわれだしたのは1980年ごろからであり、都会は田舎の包囲下にあった。1960年代の東京の都心だって、拙著『大衆食堂の研究』に書いたが汗臭い田舎者、汗臭い労働者だらけだったのだ。

そこにあった入道雲のような「情熱」あるいは「情念」あるいは「激情」、あるいは「野蛮」「野性」、そして、であるがゆえの「あたたかさ」。これらは、コギレイでカワイイ癒される「懐かしい昭和ブーム」からは捨てられているような気がする。ま、ようするにジャンクなのだ。

とにかく、「懐かしい昭和ブーム」には、あの暑い夏の田舎の入道雲がない。しかし、鈴木漁生さんの漫画は、その入道雲だらけだ。秋麦の季節だって、入道雲だ。

『漁生の浪漫戦記 青春の墓場』で、宇田川岳夫さんが書いている。「鈴木漁生の劇画世界には、青春の情熱に満ちたかのように照りつける暑い夏の日差しや、狂気を秘めてどこまでも青い空に湧き上がる入道雲や、貧困や障害や差別といった負の遺産を帯びながらも逞しく生きる人々や、六〇年代初期の生活臭が漂う路地裏や、月明かりに照らされた夜更けのあぜ道といった、妙に郷愁を起こさせるような失われた光景(それらは作品の発表された七〇年代中期にはすでに失われつつあったのだが)がちりばめられている。」

Ryousei3が、しかし、たしかに多くの光景が失われてきたが、ワレワレ自身は、どうなのだ。不条理、理不尽といった負の現実と、どう向き合っているのだろうか。夏の入道雲を見たか。見よ、夏の入道雲。いいなあ、入道雲、好きだぜ。

入道雲のような情熱を失わず、力強く生きたいものだ。って、このトシになっても、そんなふうに入道雲を見るおれは紳士にはなれないな。オンナには怖がられて逃げられるねえ。おれって、やっぱりバカか。コリコウに生きるよりバカでいい。ま、これしかないってことだが。

しかし、おもえば、たとえば、いまの麺の太さ味覚まで、あのころの労働者の生活が決めたものなのだなあ。いまどきの「懐かしい昭和ブーム」には、そういう景色が欠けている。3丁目のナンタラなんて……。いや、小賢しいメディアやブンガクやアーチストやクリエイターなどによって、捨てられたのだ。昔はよかったというズボラと自己愛と商業主義。

捨てられた昭和と鈴木漁生をとりもどそう。まず、入道雲を見上げるのだ。まず、鈴木漁生の入道雲を見るのだ。画像は、傑作集からスキャンしたが、うまくできず勝手にトリミングさせてもらったりした。あるときは入道雲を背負い、あるときは入道雲のなかを駆けるように……。

ああ、ひさしぶりに酔って書くと、どうもイマイチだな。こうしちゃいられない。酔ってもやらねばならぬことがある。外は雨、しだいに強くなっている。24時半すぎ。

当ブログ関連
2005/02/08さらに『東京いい店うまい店』と鈴木漁生本「浪花節だよ人生は~」…クリック地獄
2007/06/24雲よ…クリック地獄

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2007/07/11

梅雨空の上野で企画の相談

Ueno_jyurakudai_1きのうは、キヨタ嬢さんと企画の相談で聚楽台といわさき。画像は上野の聚楽台。いつまで続く、この店。ほかの店はすべて退去、ここだけが残る。

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2007/07/09

門前仲町で落語馬花、飲まずに帰る

きのう。酒好きササキ嬢さんから以前に誘いがあり予約しておいた、落語馬花へ。まだどことなく前夜の飲み疲れがデレッと残る身体。

昨年12月のときとおなじ、門前仲町の門仲ホール。6時半ちょいすぎにエレベーターにのろうとすると見たことあるような男が一人。誰だか思い出せない、芸能人のような気がするが、テレビを見ないから知らない、でもなにかで最近見た顔だなと思いながらエレベーターのなか。

大盛況、予約を断るほどだったと。知っている顔はいないだろうと思っていたが、着物姿のセオ嬢さんが。そういえば昨年12月もいたな。おれと顔を合わすや急いで、おれの顔だけ見ながら近づき足下がぁ、床の台につまづきドタッと、おれの腕のなかに転がりこむ、とはならずにこらえて踏みとどまる。そしてなんと、カワハラ嬢さんもいる。おととい電話で話したばかりだが、お互いここで会うとは思っていないから、そんな話はしてない。このおれを含めた3人は、古墳部で、今月末東北へ行く。しかもみなと一緒に行かずに先発するヘソマガリ5人のうちの3人なのだ。それが、どういうつながりでここにいるのか。はてな。見えないところでつながっている糸。七夕に願をかけたところでもとのようにつながらない切れてしまった糸だってあるが。大都会の糸、いと不思議、なんてね。

はてな。といえば、エレベーターの見たことあるような顔は、松尾貴史だった。彼は、この日飛び入りゲストとして落語をやりに来たのだ。噺は「はてなの茶碗」。それはともかく、まずは馬吉が「ざるや」。うまいがはしょりすぎ、もっと聴きたかった。おあとの飛び入り松尾の関係があったのだろう。つぎ、こみち「お菊の皿」、前回とちがい硬さもとれ、女ならではのはなしっぷりをいかし、上達がわかる。

そして、ここで松尾貴史なのだ。高座にあがった顔を見て思い出した、さきほどは違うメガネだったが、このメガネの顔は『酒とつまみ』9号の「酔客万来」に酒グラスを持ってアップで写っていた、あの顔じゃないか。ちかごろ落語をやる芸能人がふえているらしい、落語が女に人気だというので落語をはじめるのか、やるなら浪花節をやれ、と思いつつ聴いていると、これはきのうきょうの芸じゃない、それなりに聴ける。「有名人」ということで会場も盛り上がった。

中入り前最後が初花の「悋気のこま」。これはちょいとツラかった、というか可愛そうだった。中入りあとにしたほうがよかった。デキそのものは、そんなに悪くなかったと思うが、会場は、松尾貴史のところで緊張感盛り上がり、疲れが出たのか少しダレていた、それをまとめなおし引っ張るほどの臨機応変の芸はまだ無理というわけで、チト中だるみ。

中入りのとき。飲み人の会に参加のコン兄さんを見つける。これまた不思議な縁じゃのう。どうやら、この落語会は早稲田の落研あたりがからんでいるらしいと見当ついた。

中入り後は、それでトリになるゲストが登場する。今回は正朝が「井戸の茶碗」を。正朝を聴くのは初めてだったが、落語家というより、そのへんのしがないサラリーマンのオヤジが酒場で世間話をするような感じでマクラが始まった。マクラだけではなく、その感じが続く。なんだか妙な味がある。それがこの人の芸なのかどうかはわからないが、この日のだしものにピッタリだった。

武士の意地というか、正朝は「正直がテーマ」といったが、武士の正直と町人の正直のちがい。武士は刀にかけても正直を通そうとする。正直というより、意地と面子というか、丸くおさまるものもおさまらなくなる。こんなのに付き合わされたら、とんでもないめにあう。正朝は、そういう二人の「正直者」の武士のあいだで、右往左往させられ、とんでもない目にあう正直者の屑やのオヤジになりきっていた。意地を通そうとする上司のもとで、右往左往のヒラみたいな感じもあった。

この噺は何度も聴いているが、その滑稽さが、よく出ていた。けっきょく、噺は、噺家の芸のレベルということもあるが、自分なりに噺の素材やテーマをどう消化あるいは昇華するかという工夫が、けっこう大事なのだな。このへんは、なんでもおなじか。そのように感想したのだった。

ま、とにかく、若いひとたちが懸命にやっている芸を見るのは、成熟した完成度の高いものや洗練されたものにはない、あふれる荒削りな元気がイイ。ま、おれのばあい、とくに自分で「粋」や「通」をやるつもりはないから、こういう「発達中」「挑戦中」というかんじが好きだな。

セオ嬢さんカワハラ嬢さんコン兄さんにさよならをし、ササキ嬢さんには打ち上げ飲みに誘われたけど、チト疲れが残っているし、体調を整えておかなくてはならないので、めずらしく飲まずに帰る。

当ブログ関連…2006/12/04「門前仲町で落語、信濃路で浪花節の気分」…クリック地獄

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2007/07/08

新宿ぼるがで泥酔記憶喪失

きのう。18時新宿西口「ぼるが」待ち合わせ。そのまえに池袋古書往来座の「わめぞ外市」に寄っていこうと思っていたが、アレコレ用が多く時間がなくなる。出かける前ポストをのぞくと大谷さんから資料がドーンと届いている、電車のなかで見る、おもしろい。北九州はおもしろくなりそう。

ぼるが前16時、タカノさんより先に初対面のキヨタさんあらわれる、あいさつ飲みだす。用件というか、なんというか、聞かれるままに話しはじめ。生ビールうめぇぇをやってから酎ハイ、なんだか酔いがはやい。聞かれることに、すぐ記憶が反応しない、名前やなんか思い出せない。酔いのせいかボケのせいか。タカノさんあらわれる。電話で話したりしているから、そんなに時間がたっているような気がしないが、もしかすると2005/02/09「新宿質問人形の夜」以来か、あのときも「ぼるが」でスタートだったな。と思ったが、いやそうじゃないか、去年の7月、中ざとで飲んでいる。

19時半ごろ? タカノさんの知人、タナベさん+キムラさんご夫妻が斉藤酒場の帰りとかで加わり、大にぎわい。ぼるがも満席状態でにぎやか。タナベさん夫妻は新潟転勤からもどったばかりなので、いきなり新潟のことで話がはずむ。ゲストハウスにも興味があって、そちらへも話が転がる。そうそうキムラさんのおかあさんは、どこだったかな、ベルギー?チェコ?酔っていたのでよく覚えていないが、そのあたりでゲストハウスをやっているという話だったな。酒を芋焼酎湯割りに切り替え、どんどん飲む。

こんどは中野でゲストハウスやどやの連中と飲みましょう。やどやのボスも団塊だし、ってあたりが「結論」だったような気がする。そうそう、そういえばそもそも「団塊」がテーマでこの夜の飲みになったのだった。みな団塊よりはるかに若いひとたち、おれは団塊より上、それが…。団塊って、いつまでたっても、死に絶えるまで?ネタなのですね。

閉店で出されたが、酔いすぎてもう一軒行く元気なく泥酔帰宅。また、目が覚めたら服のまま畳の上で寝ていた。

今日も今日とて。いや、今日は落語だから、そんなに飲まない。だろう、きっと、たぶん。

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2007/07/06

近代日本食の深層海流からジンギスカン盛岡「てくり」じゃじゃ麺

きのう書いているヒマがなく、「栄養料理の作方」の執筆陣の名前と肩書をメモして終わった。じつは、おれもまだ全部を丁寧に見たわけではないが、この名前や肩書を検索していくと、とんでもないものが出てくる。それは「近代日本食の深層海流」といっていいほどのものだ。

『汁かけめし快食學』に「食べ物の本はたくさんあって、いろいろな知識が得られる。しかし、イザ身近なところで、自分の親は何をどう食べていたのか、本を読んでも考えてみても、わからないことがたくさんある。祖父母にいたっては霧のかなたの景色を見るようなものだ。」と書いたが、汁かけめしとカレーライスの歴史一つとってもそうだし、またカレーライスほどの身近な料理の歴史にして、それはここわずか100年ほどのことなのに、ナゼこうもアイマイでオカシイのか考えると、霧と闇のなかに迷い込んでしまいそうになる。

そもそも、食べ物の歴史に対する関心に、自分の親や祖父母は何をどう食べていたかということが大きく欠如している。たいがい「和食」だの「洋食」だの「元祖」だのといった観念や教条にこだわる。自分の歴史そのものであるはずの食の歴史が、なぜそのようなことになってしまったのだろうか。

そのナゼを探求すると、近代日本の食文化の歴史(書かれた歴史という意味だが)は、おもに男の支配と職業と道楽、そのもとで家族の健康の維持という課題や義務を担わされた女(主婦)の役割、といったなかで成り立っていたことがわかる。

いまもって大勢はそうであり、つまり、食や食べ物のことになると、生活の実態にあるひだのなかにワレワレの食文化を発見していこうとするより、男の支配(利権)や職業や道楽だった生産や料理、つまり「プロ」の側に知識を求め、かつそちらに偏った知識を受け入れる。そして生活は、いつも「教えられる」「教わる」立場である。そういうことに長いあいだ慣らされてきた。そのなかで、自分の親や祖父母は何をどう食べていたかという関心すら失われてきた。生産界や料理界の「プロ」の代弁のような話ばかり多い。といえる。こんにちの「食育」も、まったく同じ流れなのだ。

そういう近代日本の食文化が、どう生まれ続いているか、その表面に出にくい深層海流が、この執筆陣をたどっていくと見えてくる。霧と闇が晴れていくようなコーフンを覚える。関心のあるかたは調べてみることをオススメする。軽く本が書けてしまう内容がある。どんどん書いてください。

この昭和九年は、満州建国、国際連盟脱退のあと、東北旱魃大飢饉の最中、ここにも登場する陸軍糧秣本廠は、まだ日本の食糧政策を完全に掌握下においていたとはいえないけど、明治以後の近代国家建設の流れの中で強い影響力を持っていた。その中心部分に、とくに大正以後だが、「栄養学」がすわる。そして、このころから栄養学は軍と食料政策に深く関わることになる。生活のための栄養学ではなく支配(利権)のための栄養学、その底流が、「栄養料理の作方」の執筆陣に見られるわけだ。

それはそうと、この執筆陣をしらべていくと、とんでもないものが出てくる一つが、羊の脳の味噌漬だ。おどろいたなあ。これを食べようという普及活動があったなんて。そのことにふれている、「現場主義のジンパ学 北大文学部名誉教授 尽波満洲男」は、ジンギスカン料理の歴史を語り、内容濃く雄弁だ。ここには、一戸伊勢子や満田百二の名前も登場する。…クリック地獄

ワレワレは生活現場主義の食文化に立つ必要があるとおもう。

そしてジンギスカンと生ビールのことを考え生唾ゴックンしているうちに、先日2007/07/03「ビアガーデンに行きたくなった、けどけど」に書いた、木村衣有子さんのブログにあった、銀座松坂屋のジンギスカンビアガーデンを思い出し、そういえば、以前によく行った千駄ヶ谷駅近くの神宮外苑のジンギスカンビアガーデンはまだ健在なのだろうかと気になったのだった。千駄ヶ谷には知り合いというか、ここにむかし若い男と会社をつくり、その会社はいまでもそいつがやっていたりで、知り合いも少なくないのだが、イザとなるとなぜか行くのがメンドウ、遠いなあと思う。でも中野で飲む思いをすれば同じようなものなのに。千駄ヶ谷にはイイ女がいないからね。って、うそうそ、イイ女います。

そりゃそうと、きのうその木村さんから、おれのブログをごらんになってだろう、ジンギスカンの話に目をとめてくれてありがとうと、盛岡のタウン誌「てくり」5号が送られてきた。「伝えたい、残したい、盛岡の「ふだん」を綴る本」ということで、いい感じ。観光用に着飾った顔ではなく、「ふだん」の顔でふれあうことが大事だよな。「ふだん」の顔に、なにかを感じられるようになることだよな。盛岡市の「まちの編集室」が編集・発行。

盛岡散歩人として木村さんが表紙から登場しているが、この号にある「じゃじゃ麺」が木村さんのオススメだとか。「2号で紹介した『福田パン』と並び、もう一つのソウルフードとして盛岡っ子に愛されている白龍(パイロン)の「じゃじゃ麺」」。うームうまそうだ。この夏、青森まで行くのだから、その帰り、体力に余裕があったら盛岡で途中下車しよう。

盛岡「てくり」…クリック地獄

(追記)木村さんは、詩人・立原道造が盛岡に滞在した一か月のあいだに書いた『盛岡ノート』を手に散歩している。この本は長いあいだ絶版になっていたのが、今年再刊されたものらしい。

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2007/07/05

「栄養料理の作方」の気になる関係ないこと

Eiyouryourino_tukurikata能ある鷹が爪をかくすように、酔っ払いのふりをして敵に近づくコマンドのように、平均以下のヘタな文章のなかに平均以上の内容を埋め込む芸を追求するおれは、つねに勉学を怠らない。今日もまた、この『栄養料理の作方』をパラパラ見る。パラパラね。おっ、飲んでいないのか。はてね。

主婦之友(五月号)附録。昭和九年五月一日発行。昭和九年というと、1934年。題字の「栄養」の栄などは「榮」と旧字だが、ここではなるべく新字で書く。

本文320ページのボリュームに広告もあって、何回見てもおもしろい。見るたびに、なにかしら発見がある。

『栄養料理の作方』とあるが、ようするに「栄養」がハヤリの時代だったから、フツウの料理を「発育盛りの子供さんの栄養料理」「妊婦向きの栄養料理」「勉強盛りの学生さんの栄養料理」「老人向きの栄養料理」「運動不足の人の栄養料理」「「肺病患者の栄養料理」といったぐあいに栄養的能書きをつけて分類しただけ。ようするに「食育」がハヤリだからなんでも「食育」でやろうというのとおなじだ。むかしから汗水流さないで知識や情報で収入を得ようという邪悪なものたちのやっていることは、たいしてちがわない。しかし、このなかに、「筋肉労働者の栄養料理」という項目があるのにはおどろいた。

一ページ広告に「絶対安全マモリエプロン」ってのがある。裸の女が後姿の写真。エプロンのようなものを、前にではなく、後ろの尻にしている。「月経前後のお召物の保護に」とある。「大妻技芸学校長 大妻高等女学校長 大妻コタカ先生考案指導」だそうだ。

魚の絵と解説のページがあって。「飛魚」に「焼魚最も美味」とある。「飛魚」は、いまが盛りだ。このあいだの鳩の街の商店街の魚屋では、これをドカッと氷のはいった大きなバケツに入れて店頭におき、軒先には開いたやつを洗濯物をつるすサークルにぶらさげて干していた。それを見た『酒とつまみ』編集長の大竹聡さんが、「これでダシをとるとうめえんだよなあ」といった。おれは、あんたは酒さえあればいいんだろと胸のなかで思いながら「そうそう」と同意した。

そのことじゃない。いまここにメモしておこうと思ったのは、この本の執筆者の名前と肩書だ。登場順に。

陸軍糧秣本廠 北山義雄
家庭食養研究会長 香川綾子
一戸食物研究所 一戸伊勢子
渡邊競氏夫人 渡邊雅子
聖路加国際病院調理室 日本食調理部
尾崎稀三氏夫人 尾崎鍈子
銀座美容院主 早見君子
白井喬二氏夫人 白井鶴子
高鍋日統氏夫人 高鍋千代子
陸軍糧秣本廠 満田百二
東京警察病院食餌療法調理室 宮川哲子
慶応病院食養部 芦澤千代子
慶応病院食養部 岡本壽々子
河上一雄氏夫人 河上とり子
掛橋料理講習所 掛橋菊代
中村古峡療養所 中村琴子
婦人割烹講習会長 宇野九一
医学博士田中吉左衛門氏夫人 田中和子
松島誠氏夫人 松島郁代
高田重正氏夫人 高田弘子
東京衛生病院料理主任 ミセス・パーキンス
得見秀子
宇多割烹研究会長 宇多繁野
東京料理学校講師 桜井省三
東京割烹女学校長 秋穂敬子
大下角一氏夫人 大下あや子

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ガス×電気、そしてラードのこと

料理の熱源を個人史的にふりかえると、戦後のガキのころの薪のかまどと炭の七輪から始まる。かまどの前で煙に涙を流しながら火の番をやらされた。

つぎに電気コンロが入ってきたように思う。これを利用したガキのころの記憶はあまりないのだが、1962年上京して下宿一人暮らしを始めたとき、ウチにあった小さな電気コンロを持ってきて重宝した。下宿は共同炊事場のほか部屋では、電気以外の火気の使用を禁止されていたからだ。

電気コンロのあと石油コンロで、これはけっこう活躍した。とはいえ、かまども七輪も併用していたと思う。

プロパンガスと電気釜の普及で、まず薪のかまどがなくなった。七輪はあって、長い時間の煮物などのときは、これを利用していたように思う。まだプロパンガスは高かったのかもしれない。練炭や豆炭も、けっこう使われていた。豆炭は、主に暖房用だったが。上京してからは、ほとんどガスだった。

こんなことを思い出したのは、いま家庭の台所を舞台にガスと電気がしのぎを削っているらしい話を聞いたからだ。ほぼガスの独演場だったところへ、防災の有利、夜間低料金を利用しての給湯システムで、電気が普及したらしい。調理用具売り場を見ても、IH用調理器具がずいぶん増えているのでわかる。

どの熱源を選ぶかは、建物の建築時点で決まるから、ガス会社も電気会社も住宅メーカーの設計や設計事務所などを対象に営業を強化する。設計の関係者などを自社のショールームにある料理教室のようなところに招き、実際に料理を作って試食などしてもらう。

そのときは、比較が必要だから、ガス会社も電気会社も対抗する熱源を使っての料理を一緒に作って試食してもらう。とうぜんのことだが、ガス会社でやるときは電気で作ったものがまずく、電気会社でやるときは、その反対になる。

そこで調理するひとは、どう思っているのか、自分を雇っているほうを有利に扱っても、誰も文句はいえないだろう。むしろトウゼンとみる。「公平」を迫るようなことはしない。ガスで調理するひとはガスの普及のため、電気で調理するひとは電気を普及する立場であることぐらい承知で判断するのがフツウだろう。

ああ、酔っていないのに、なにを書きたいかわからなくなったぞ。

ようするに、それぞれ長所短所いいぶんがあるのだ。で、この件に関していえば、電気では困難な料理がある。詳しくしらないのでなんともいえないが、不可能ではないかと思われる。それは、中華鍋を使って「かえし」をする炒め料理だ。野菜炒めをうまくやるには、やはりガスでなければ。

で、おれがふと思ったことは、おれは賃貸生活をしているのだけど、いまのように木造の古いアパートに住んでいるうちはいいのだが、こういうアパートはその建築年数からして、どんどんなくなってきている。そして新しい賃貸用のアパートやマンションは、火災を警戒して電気を採用している例が増えているらしいのだ。

するとだよ、そこでだよ、おれは、野菜炒めがうまくできなくなったら困ったことだなあと思いながら、ところで、ちかごろはウチでもラードを使わなくなったし、そういえばスーパーでもラードを見かけないが、ラードはどうなったのだろうかと心配になり、あとで買い物に行ったときに売り場をたしかめ、チューブ入りがあったら一本買ってきておこうかと思ったのだった。

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2007/07/04

コロッケに関するアアダコウダ

2007/06/25「おれもバカだが、消費者もバカである」に「おれは、そもそも、コロッケが、牛肉入りだとかなんだとかに価値を認めない。これからは「牛肉風味」を開発すべきだろう。それなら偽装にならないし、そういうものに価値を認めるひとを満足させることもできる。」と書いた。

たかだかコロッケだが、よくよく考えると、なんで「牛肉入り」かどうかが価値を持ってしまったのか。貧乏日本人のたくましく切ない食文化の物語がそこにはあるようで、そのことについて当ブログで書いたことがあるような気がして、ブログ内を「コロッケ」で検索してみたら、ありましたありました。コロッケに関するアアダコウダということで、ここに拾っておこう。

2006/08/03「定番商品 鶏唐揚げとコロッケの待遇の違い」

そして、これは「ファンタジー」というぐあいに「創作風」に書きながら未完のままだが。

2003/07/30「再びファンタジー 「コロッケ傷害事件」」~2003/08/10「コロッケ傷害事件7」

2004/10/06「日記の文章と東陽片岡とコロッケそば」


ついでに忘れないうちに書いておく。むかし「肉入りコロッケ」を楽しむときは、ジャガイモを皮のままゆでてつぶした。すると、すりつぶされた皮が肉のような気分の色と感触になった。もちろん肉も、脂身をミンチにしたようのものを入れるわけだけど、そのようにして「肉入りコロッケ」を楽しんだ。おれが知っている家庭での手づくりの話だ。そして、70年代の肉屋のコロッケにも、そのようなものがあったと記憶する。昨今の「牛肉入り」と称しながらイロイロな混ぜ物をつかうのは、そういう「伝統」かもしれない。

むかしは手づくりでホンモノだったというのは、まちがっている。いや、ホンモノはホンモノだが、チューハイだってホッピーだってそうだが、豊かな想像力で安く、いろいろ混ぜて作ったものを楽しんだ。それをニセモノと否定するようなバカは、いないか少なかった。ということなのだ。

だから、いまの騒動、病人も死人も出ていない、いまの騒動は、ホンモノに対する日本人の認識かココロが変わった結果かもしれないという見方をしてみるのもよいのではないかと思う。少なくとも、「牛肉入り」といった「高級」なコロッケが食べられるほど生活は向上しているわけではないのに、「牛肉入り」といった「高級」なコロッケを食べられるようになったと錯覚しているかもしれない切ない「高級」な生活を考え直してみるのもよいかもしれない。

仕事に誇りがもてないほど安い賃金と長時間労働、あるいは契約社員や派遣やパートやアルバイトや、ともすると「二重労働」といわれるほど一日のうちに社員とアルバイトをかけもちし、そのために健康を損なうような生活をしている貧乏人が、安いニセモノを食べる必要のない連中と一緒になって右往左往することはないのだ、というふうに考えてみるのもよいかもしれない。

コロッケの上で、力強く開き直りたい。それが庶民文化のありかただろう。そんなふうに、考えてみるのもよいかもしれない。

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切ない下層共食い

けっきょく、一連の食肉問題にしてもそうだが、問題になる食品は下層の民の胃袋を満たす安いものであり、それをつくる現場の会社も経済産業界からすれば下層であり、その現場を支える労働者も下層の、そういう安い食品がないと日々の生活に支障をきたす名もなき大衆なんだよなあ。

だけど、それが「大衆」という市場を形づくるわけで、そこにメディアやメディアの周辺にいるひとたち、はたまた大衆課税で食べているひとたちが寄ってたかって、それをネタに稼ぐ。また弱小の会社など潰れてくれたほうが自社の市場が広がってありがたいという、より勢力のある会社もあり、その意向を読んで稼ぐ「クリエイター」「知識人」「文化人」もいる。このひとたちは、そういう問題になりそうな安い食品などなくても暮らしていけるひとたちだし、より優雅な環境で質のよいものを食べながら誰かを悪者にし「真相究明」「正義」「改革」で騒いでいればカネになるひとたちなのだ。

「格差」を問題にしても、下層の生活を代弁するものはいない。

かくて、下層のものたちは、いつまでも同じことでお互いを傷つけあい共食い状態になりながら生きていかなくてはならない。

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2007/07/03

ビアガーデンに行きたくなった、けどけど

木村衣有子さんのパール日記Mon.07.02.2007「●ビアガーデン再び」 で、銀座松坂屋の屋上ビアガーデンについて、「今のところ東京ではここがいちばんのビアガーデンだと思っている。なぜなら、羊肉をこれでもかというほど食べることが許されるから。」とあって、見たら行ってみたくなった。

だけど、この夏中に行かれるかどうか。

この夏は、暑さに耐え移動に耐え食べるに耐え、たぶん酒にも耐え、ということになりそうなので、一日腹筋30回腕立て伏せ30回首振り60回手ぶらぶら60回鼻糞ほじほじ40回走りこみ30分で身体を鍛えておこうと思ったが、まったくやらないまま7月の、えっ、もう3日じゃないか。まだ先と思っていたのに、チケットは送られてくるし、電話でアレコレ決まってくるし。

寝台車、飛行機、新幹線、各駅停車、クルマ、さまざまな乗り物をつかい、北九州へ、もどって青森秋田へ、もどってまた北九州へ移動転々、その間にも……、食べるのもウンコも移動しながら。ああ、ほんとうに、そうなるのだ。なんとかなるだろうと思っていたが、なんとかなるのだろうか、63歳入れ歯老眼ロストラブ鼻水。ま、女に耐える必要はないようだから、なんとかなるだろう。

無事におわったら、おわるのは9月中旬ぐらいだと思うけど、まだビアガーデンはやっているはずだから、行きたい。それを夢見て、がんばろう。

飲みっぷり食べっぷりのいい木村衣有子さんと新刊『わたしの文房具』(㏍ベストセラーズ)のことは、当ブログ2006/11/21「わたしの文房具で小沢昭一的」にある。

そういえば、先日の東向島ウロウロのとき、古い木造のガラス引き戸の文房具屋が二軒ばかりあって、どちらもうらぶれた感じはなく営業していた。その前で、『酒とつまみ』編集長の大竹聡さんが、「こういう文房具屋の前に立つと、胸がワクワクして入りたくなるなあ」と言っていたが、おれはあんたがワクワクするのは酒屋の前だけではないのかと胸のうちで思いながら同意していたのだった。

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2007/07/02

内澤旬子デーな右往左往

当ブログのアクセス数は、あまり乱高下しない。おれの日常のように、ほろよい気分のんびりした起伏で過ぎている。しかし、今日は、なんだかアクセス数がいつもより異常に多い。同時間で2割り増しの感じだ。なぜかなと調べたら、内澤旬子さんがらみの検索ワードが異常に多い。

内澤旬子さんは、左サイドバーの「アステア・エンテツ犬」の作者だ。とだけ書くと、必ずムコ殿の南陀楼綾繁さんは、命名はボクです、と念を押してくる。おしどり夫婦というよりは、南陀楼さんは女を上手につかうチャンスを逃さない「女衒ビジネス」がうまいのだ。

そりゃそうと、なぜこういう異常現象が起きたかというと、うちはテレビがないので知らないが、「情熱大陸」という番組があって、きのうの放映のそれに内澤さんが主演したからのようだ。

ふつうの日でも内澤さん関係の検索は、そこそこあるのだが、今日の19時ぐらいまでのぶんを、上位から「ワード・フレーズ」で拾ってみた。ムコ殿の著書「路上派遊書日記」も、この女衒ビジネスの効果だろうと思うので含めた。「38 内澤旬子 身長」ってのは、なんだろう、テレビを見て身長が気になったのだろうか。内澤さんは背丈があるように見えるかもしれないな。

とにかく、どこのだれが、このようにアクセスしてくるのか知らないが、ご苦労さま。たいがい、内澤さんがらみだけ見て、ほかのページは見ない。おれにも当ブログにも興味ないのだ。ま、そんなものだろう。チョイとまわりの景色を見るゆとりもない。だから、この嵐は、続くかもしれない。そしたら、内澤さんは、まちがいなくスターだ。


1 内澤旬子 2 内澤旬子 プロフィール 3 世界屠畜紀行 4 内澤洵子 5 世界屠殺紀行 6 屠殺 世界 6 屠畜
10 路上派遊書日記 10 世界屠殺 10 おやじがき 10 内澤旬子プロフィール 10 内澤旬子 日暮里 犬鍋
10 内澤旬子犬鍋 19 内澤旬子 高校 19 愛犬雑誌 犬鍋 19 イラストルポ 屠殺 19 通販 おやじがき 38 内澤旬子 身長 38 内澤 ルポライター 屠殺 38 内澤 屠殺 38 内澤旬子 wikipedia 38 内澤旬子 世界屠畜紀行 38 内澤旬子 部落 38 内澤旬子 旅の手帖 38 世界屠殺場 38 内澤 洵子 38 屠殺紀行 38 世界屠畜紀行 初版 38 モクロー 38 内澤旬子とは 38 ポシンタン 荒川区 38 南陀楼 38 世界 屠殺 38 内澤 豚 38 世界屠畜 部落開放 38 内澤旬子 経歴 38 内澤旬子 イラストレーター 38 筑摩 内澤旬子 38 内澤旬子 豆本 38 内澤旬子 wiki 38 内澤旬子 おやじがき 38 内澤旬子 飯田 38 ウィキペディア 内澤旬子 


これらの検索の結果、いちばん見られてページは。

2004/05/10「BOOKMANな人びと・内澤旬子の展覧会の巻」

つぎは。

2007/02/16「『世界屠畜紀行』内澤旬子」

ほかは略。


内澤旬子さんの「内澤旬子・空礫日記」…クリック地獄

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狂騒から遠く離れて

Hananoi_tyukaきのうの続きになるが。画像は6月30日に玉ノ井いろは商店街で撮影した。この日、東向島界隈をウロウロしながら、おなじような雰囲気の中華屋を何軒も見かけた。そして、フト思ったのだが、1980年代後半からの昭和レトロブームやB級グルメブーム、お散歩ブームといった狂騒のなかで、そこから遠い位置にいて比較的日常を保ち続けたきたのが、こうした中華屋ではないか。

1980年代後半からの狂騒は、街の生活のヒダに何かを発見するのではなく、狭いジャンルやテーマに特化した情報や知識を詰め込んだ頭を武器に、街の日常に爆撃するように入っていくことだった。といえる。実際、そこへ入る人びとのあいだでは、「突撃」といった、攻撃的な言葉が使われることもめずらしくない。

それは、まるで飛行機から落下傘で降りるように、特定の地域、特定の建物、特定の食べ物にネライをつけ特化していった。京島の街のパン屋も鳩の街の路地裏の元売春宿も、降下部隊のターゲットにならなかったものを探すほうが困難なぐらいだ。

Hananoi_tyuka2あるテレビが、ある雑誌が、それをやると、みな右へならいし、同じテーマを食べつくししゃぶりつくすまで追いかけ、人びとはそれにしたがって右往左往した。もちろん、おれも、チト遠いところから、その片棒をかついできたのではあるが。

もしかすると、そういう狂騒からイチバン遠いところにいたのが、こういう中華屋の風景だったのではないかと、フト思ったのだった。ある意味では、木造の昭和から工業化の昭和、べつの言葉でいえば「高度経済成長期」の東京の労働者的な生活の風景の特徴を、よく留めているように思う。

この風景が、なぜ1980年代後半以後のマニアックな狂騒にまきこまれないですんだかを考えると、逆に、その狂騒の何であるかを知ることができそうな気がした。

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2007/07/01

鳩の街、玉ノ井で「酒とつまみ」泥酔

Hatonomachiきのう。夕方17時、東武線曳舟駅集合。南陀楼綾繁さんが「酒とつまみ」に連載の「古本屋発、居酒屋行き」の取材飲み。ゲストは「モツ煮」のクドウヒロミさん。女ではなく男だった。そして「酒とつまみ」編集長・大竹聡さんと永世ゲストのおれ。鳩の街と玉ノ井をウロウロする。このあたり一年ぶりぐらい。

鳩の街商店街のアート&カフェの「こぐま」。元クスリ屋の古い店舗を利用し、ギャラリーと古本のカフェ。画像、いちばん手前の建物。まだ飲んでないのに手ぶれ。いや、飲んでないからか。

こうして古い建物を生かして使うのは、いいことだね。だけど、なぜか、どこもアートっぽいギャラリーっぽいことになってしまうのが、どうもねイージーというかんじがしないでもないが。でも、ま、こうやっているうちに、またいろいろ工夫が生まれるのだろう。おれとしては、下諏訪の「すみれ洋裁店」みたいな「作る」店もできてほしいと思う。

酒はないのでアイスコーヒーを飲み、文庫古本を一冊買い、つぎ! 地蔵坂通り寺島小学校あたりをウロウロしながら、東向島、玉ノ井いろは商店街。ここの古本屋はすごい。シャッターはおりていたが、あいていても中に入れないのだそうだ。古本を店内に積み上げているうちに通路がなくなってしまったのだね。外も敷地めいっぱいにガラクタを積み上げ「崖っぷち」状態。ジャンクだね~。おれとしては、古本屋より、このほうがうれしい。

ってことで、さあ、やっと飲める。今回は、クドウさんオススメのモツ煮コース、一軒目「三河屋」、うめえ、グビッグビッ。二軒目「十一(じゅういち)屋」、うめえ、グビッグビッ。どちらも安い、よい酒場。

例によって記憶ない。南陀楼さんに引率され、西日暮里で終電一本前に乗ったのはたしか。

えーと、思い出すと、「酒とつまみ」連載陣の有田芳生さんが参議院選挙に出馬する話をしていたな。じゃあ大竹聡も「酒税撤廃」を掲げて出馬すべきだとかなんとか。ほかにも、とにかく23時すぎまで飲んでいたのだから、めちゃくちゃ話をしているはずだが覚えていない。どーせ、どうでもよい話だろう。

歩きながら大竹さんと「酒飲み代行業」ってのをやれないか話ていたな。飲めない人のために宴会や酒づきあいのときなどそばにいて飲んであげて代行料をいただくショーバイがやれないか。これだけ飲んでいるのだから、飲むことで稼ぐことをしようと。クダラネエ~。でも、そういうことがあったら大竹かおれが引き受けますので、よろしく~。

そうそう、これはマジだ。『中央線で行くホッピーマラソン』、まだ在庫があるそうだから、買ってね~。『酔客万来』はゲラが出て、ほんとうにもうすぐ出来上がるらしい。

いま12時過ぎ。酒は残っているが、心地よい残り方だ。でも、やはり、迎え酒をすべきだろうな。では、そういうことで。

ブログ 墨田区東向島鳩の街のこぐまです…クリック地獄
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南陀楼綾繁さんの「ナンダロウアヤシゲな日々」も…クリック地獄

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