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2007/07/06

近代日本食の深層海流からジンギスカン盛岡「てくり」じゃじゃ麺

きのう書いているヒマがなく、「栄養料理の作方」の執筆陣の名前と肩書をメモして終わった。じつは、おれもまだ全部を丁寧に見たわけではないが、この名前や肩書を検索していくと、とんでもないものが出てくる。それは「近代日本食の深層海流」といっていいほどのものだ。

『汁かけめし快食學』に「食べ物の本はたくさんあって、いろいろな知識が得られる。しかし、イザ身近なところで、自分の親は何をどう食べていたのか、本を読んでも考えてみても、わからないことがたくさんある。祖父母にいたっては霧のかなたの景色を見るようなものだ。」と書いたが、汁かけめしとカレーライスの歴史一つとってもそうだし、またカレーライスほどの身近な料理の歴史にして、それはここわずか100年ほどのことなのに、ナゼこうもアイマイでオカシイのか考えると、霧と闇のなかに迷い込んでしまいそうになる。

そもそも、食べ物の歴史に対する関心に、自分の親や祖父母は何をどう食べていたかということが大きく欠如している。たいがい「和食」だの「洋食」だの「元祖」だのといった観念や教条にこだわる。自分の歴史そのものであるはずの食の歴史が、なぜそのようなことになってしまったのだろうか。

そのナゼを探求すると、近代日本の食文化の歴史(書かれた歴史という意味だが)は、おもに男の支配と職業と道楽、そのもとで家族の健康の維持という課題や義務を担わされた女(主婦)の役割、といったなかで成り立っていたことがわかる。

いまもって大勢はそうであり、つまり、食や食べ物のことになると、生活の実態にあるひだのなかにワレワレの食文化を発見していこうとするより、男の支配(利権)や職業や道楽だった生産や料理、つまり「プロ」の側に知識を求め、かつそちらに偏った知識を受け入れる。そして生活は、いつも「教えられる」「教わる」立場である。そういうことに長いあいだ慣らされてきた。そのなかで、自分の親や祖父母は何をどう食べていたかという関心すら失われてきた。生産界や料理界の「プロ」の代弁のような話ばかり多い。といえる。こんにちの「食育」も、まったく同じ流れなのだ。

そういう近代日本の食文化が、どう生まれ続いているか、その表面に出にくい深層海流が、この執筆陣をたどっていくと見えてくる。霧と闇が晴れていくようなコーフンを覚える。関心のあるかたは調べてみることをオススメする。軽く本が書けてしまう内容がある。どんどん書いてください。

この昭和九年は、満州建国、国際連盟脱退のあと、東北旱魃大飢饉の最中、ここにも登場する陸軍糧秣本廠は、まだ日本の食糧政策を完全に掌握下においていたとはいえないけど、明治以後の近代国家建設の流れの中で強い影響力を持っていた。その中心部分に、とくに大正以後だが、「栄養学」がすわる。そして、このころから栄養学は軍と食料政策に深く関わることになる。生活のための栄養学ではなく支配(利権)のための栄養学、その底流が、「栄養料理の作方」の執筆陣に見られるわけだ。

それはそうと、この執筆陣をしらべていくと、とんでもないものが出てくる一つが、羊の脳の味噌漬だ。おどろいたなあ。これを食べようという普及活動があったなんて。そのことにふれている、「現場主義のジンパ学 北大文学部名誉教授 尽波満洲男」は、ジンギスカン料理の歴史を語り、内容濃く雄弁だ。ここには、一戸伊勢子や満田百二の名前も登場する。…クリック地獄

ワレワレは生活現場主義の食文化に立つ必要があるとおもう。

そしてジンギスカンと生ビールのことを考え生唾ゴックンしているうちに、先日2007/07/03「ビアガーデンに行きたくなった、けどけど」に書いた、木村衣有子さんのブログにあった、銀座松坂屋のジンギスカンビアガーデンを思い出し、そういえば、以前によく行った千駄ヶ谷駅近くの神宮外苑のジンギスカンビアガーデンはまだ健在なのだろうかと気になったのだった。千駄ヶ谷には知り合いというか、ここにむかし若い男と会社をつくり、その会社はいまでもそいつがやっていたりで、知り合いも少なくないのだが、イザとなるとなぜか行くのがメンドウ、遠いなあと思う。でも中野で飲む思いをすれば同じようなものなのに。千駄ヶ谷にはイイ女がいないからね。って、うそうそ、イイ女います。

そりゃそうと、きのうその木村さんから、おれのブログをごらんになってだろう、ジンギスカンの話に目をとめてくれてありがとうと、盛岡のタウン誌「てくり」5号が送られてきた。「伝えたい、残したい、盛岡の「ふだん」を綴る本」ということで、いい感じ。観光用に着飾った顔ではなく、「ふだん」の顔でふれあうことが大事だよな。「ふだん」の顔に、なにかを感じられるようになることだよな。盛岡市の「まちの編集室」が編集・発行。

盛岡散歩人として木村さんが表紙から登場しているが、この号にある「じゃじゃ麺」が木村さんのオススメだとか。「2号で紹介した『福田パン』と並び、もう一つのソウルフードとして盛岡っ子に愛されている白龍(パイロン)の「じゃじゃ麺」」。うームうまそうだ。この夏、青森まで行くのだから、その帰り、体力に余裕があったら盛岡で途中下車しよう。

盛岡「てくり」…クリック地獄

(追記)木村さんは、詩人・立原道造が盛岡に滞在した一か月のあいだに書いた『盛岡ノート』を手に散歩している。この本は長いあいだ絶版になっていたのが、今年再刊されたものらしい。

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