縄文のコメは何を語るのだろうか
やることがたまっているので、気分転換に、とりあえず、このことを簡単に書く。
縄文遺跡には生と死と、そのあいだにある生活の跡しかない。戦争の跡もゲージュツの跡もブンガクの跡もない。なかでも今回のおれの興味は、縄文のコメを見ることだった。米作は弥生時代に大陸から渡来し始まったという常識で育ったおれだが、縄文のコメが、しかも東北の青森県の遺跡にあったのだ。
それは青森県八戸市の縄文学習館(もしかすると八戸市博物館だったかもしれない)にあった。顕微鏡で現代のコメと比較できるように陳列されていた。見ると、現代のものよりでっぷりしたかんじだった。画像でも確認できるが胚芽のところが欠けている。これは風張遺跡の縄文後期末葉(いまから約3000年前)の竪穴住居跡から発見されたもので、いまのところ日本で最古のコメといわれているらしい。
このコメがどのように作られるようになり、どんな味のものか、まったく想像がつかない。何度も顕微鏡をのぞいては想像をめぐらすのだが、酒を飲んでいない昼間のせいか、なんのひらめきもなかった。しかし、米作をしていたらしい縄文人は、一挙に近くかんじられた。
縄文のコメが北の青森県で出土したことについては、学芸員の方の説明であっさり片がついた。つまり、そのころ地球は温暖化の時代であり、現在より平均気温が摂氏2度ばかり高く、海面も5m?ぐらい高かった。それが丘陵の上の風張遺跡でコメが発見されたことに関係あるらしい。
しかし、チト学芸員の説明には疑問があったのだが、それを話すまもなく、見学は時間切れになってしまった。今回は、めったに行く機会のない東北だからと、グルメ観光や温泉観光など盛りだくさんで、ゆっくり遺跡見学ができなかった。カタログも吟味する余裕もなく、一冊も買ってこなかった。
28日の「居酒屋じょじょ長屋」での宴会食事のときに、「貝焼き」なるものをたべた。大きなホタテの貝殻にだし汁を張り、切ったホタテの身やヒモや野菜などを煮て、最後に生卵を溶いてかけとろとろのうちにたべる。その基本的な方法は、火床に土器をつかい、貝殻を鍋がわりに使用する、縄文人流のままではないかと思った。ま、そのときは、だいぶ酔っていたが、酔ったアタマで、フトそう思うと、ひとの一生も歴史も一瞬に思えた。めしくって生きて、めしくうために何かをし、それで十分なのだ。
前夜の宴会食事の席で、筋むかいにいた写真家のケイさんが、絵も写真も後世に残そう伝えようとするとろくなものができない、というようなことをいっていた。あるいは、後世に残そう伝えようとするろくでもない画家や写真家がふえてろくでもねえ、とかいっていた。そりゃモノカキもおなじだね。などと、酔って話していたのだが、ようするに、めしくって生きて、めしくうために何かをし、それで十分なのだ。残そうとする必要はない、生と死のあいだの生活のなかで、残るべきものは残っていく。
残り伝わるのは、気どらず力強く生きる文化なのだ。と、手前味噌、でした。
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