木村衣有子さんの新刊「もうひとつ別の東京」は、木村さんらしいと思う
2007/08/03「木村衣有子さんの新刊「もうひとつ別の東京」」に本の画像だけをのせて、「あとで、詳細を紹介する。」と書いたまま、日にちがすぎてしまった。この間に、なんとなく読み終えていた。そう、この本は、なんとなく読み終えて、そしてまたなんとなく手にとってパラパラ見てしまう本なのだ。
はがき二枚より一回り小さいかんじの大きさ。1見開き1景、左ページに写真、右ページに文章が5百字前後といったところか、合計55景。北の丸公園、小石川植物園、東京女子大学……。
木村さんは女に人気の作家らしい。本の作りは、それを感じさせるものがあるが写真や文章は、男でも女でもない。
2006/11/21「わたしの文房具で小沢昭一的」に書いた、木村さんの「わたしの文房具」を読んだときも感じたが、一個の「動物」あるいは「人間」あるいは「女子」…ま、コンニチまで生きてきた生物としての、というか、その現実的存在が光を発し、文房具に光をあて、今回は東京の景色に光をあて、光が反射しはねかえってくるものを書く、という感じが、おれとしては好きだ。ちょうど写真を撮る感覚だろうか。
そこには「私」という存在があるのだけど、「私」がでしゃばる感じにはならない。また日本的私小説的な、「自分さらし」ともちがう。たとえれば、「私」は、間接照明のような位置というか存在というか。こんな文章が増えるといいなあと思う。おれも木村さんのように書きたいし、木村さんのような書き方がふえるといいなあと、いつも思う。
ついでにいえば、ちかごろ、というか、これまで、エッセイだのなんだのには「私が私が」がシャシャリ出過ぎるものが多いように思う。ああ、わかったよ、あんたはカッコイイ。オリコウだねえ、あるいは変人だ、ふつうの人とちがう、よく知っている、すぐれた有能な人だ、なんだかモノスゴイ人だ、いい人生をしているね祝福してあげよう、と言いたくなるほど、「私が私が」で、対象は「私が私が」を押し付けるネタにすぎない感じを受けることが多い。とくに飲食系はね。
このことについて、なぜか?と考えるともなく考えてきたが、最近すこし思い当たることがあった。その「私が私が」は近代個人主義によるものと思っていたが、そうではない。まったくちがって、むしろ「前近代性」の強い残存としての「私が私が」らしいのだ。自身のうちなる「前近代性」を克服しようとしてないか、してないところにある「前近代性」、それが「文章を書く」というときに露呈する。そのように気づいたことがあった。
それはともかく、本書はサブタイトルに「ひそかに愛し、静かに訪ねる55景」とある。そのように、静々と55景が展開される。が、静々といっても、平坦ではない。
つべこべいわずに、おれがイチバン気に入ったのは。木村さんらしいなあと思わず笑ってしまった、「砧公園 世田谷美術館の「手拭い」」だ。本書のタイトルは「もうひとつ別の東京」だから、これは砧公園の世田谷美術館のこと、そしてそこの便所にある手拭いのことではなく(たぶんないと思うが)、美術館で売っている手拭いが関係する、とタイトルから想像できるし、そのように読みすすんだ。すると、たしかに話は、そのように展開するのだけど、最後に意外な飛躍がある。つまり、このように、なぜ世田谷美術館の「手拭い」が気に入っているかの話で終わるのだ。
「手拭いはここ数年で、いろいろな柄のものを試してみたけれど、結局、渋めのほうがいいと思った。それは私が、手拭いを主に台所で、布巾として使っているからでもある。自分で作るのは簡素なおかずが主なので、台所道具はやっぱり見た目はシンプルなほうがいい。」
たしかに、ここまで含めて、木村さんの「もうひとつ別の東京」なのだ。こういう、ある種、自由な感覚的な飛躍が、木村さんらしいと思う。おとなしく静々でおわらない。ってことで、木村さんの文章、あるいは文章を書く姿勢が好きなので、ほめまくりました。
景色は、そこに「客観的」に存在するようだけど、じつはそうではない。それぞれが見たようにしか存在しない。関心や興味の持ち方で、景色は変わる。もっとも本書は、「55景」とあるが、必ずしも、いわゆる「景色」を追ったものではなく、「東京らしさ」について考えたものだから、なかには「九段下 『ゴンドラ』の「ショコラ・ゴンドール」」といった食べ物もある。
写真も木村さんで、同居のツマが、「木村さんて写真うまいね」といっていた。なにか感じるところがあったらしい。
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