ある大衆食堂で
このメニュー書きが目に止まったとき、そこはかとなく静かに胸がときめいた。そして、はやるココロをおさえながら、デジカメをかまえ、シャッターを切った。シャッターを切った、撮ったぞ、という感触が余韻として残った。
クライマックスというのは派手でにぎにぎしいものとはかぎらない。めずらしい特異なものとはかぎらない。派手でにぎにぎしい非日常やめずらしい特異なものにしかクライマックスをかんじられないとしたら、日々はじつにタイクツすぎるのではないだろうか。そんなタイクツから逃れるように趣味を求め特異を求め流行を追う日々は、がつがつあたふたあわただしいだけだ。しかも、そのあわただしさをクライマックスとかんちがいする。
日常的な、なんでもない風景のなかに、クライマックスはいくらでもある。それをキャチできるかどうかなのだ。そう思うことがある。
しかし、女ごころは、わからんねえ、キャッチなんかできないよ。わからんわからん、考えたくない、なりゆきなりゆき。考えたいような女、いるんですか。おれとかれは、焼酎をグィッとあおった。
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