ドーダでドーダ
ヤスlogさんを覘いたら、「鹿島茂「ドーダの近代史」読み中」というエントリーがあった。
「ドーダの近代史」は、どうやら鹿島茂さんが東海林さだおさんの「ドーダの人々」にいたく共感して著したものらしい。
東海林さんの「ドーダの人々」は、ビックリ仰天イタタタタってぐらいおもしろい。『もっとコロッケな日本語』に収録されているのだけど、おれがもっているのは文藝春秋刊の単行本二〇〇三年六月第一刷で、文庫本になっているかどうかは知らない。
そこで「ドーダ」について、東海林さんは、こう書いている。……
自慢話は「ドーダ!」である。
ドーダ、このようにオレはエライんだぞ、ドーダ、と言っているわけだ。
……引用おわり。
様々な「ドーダ」が東海林さんによって俎上にのせられる。
なんていう作家が言ったか忘れたが、エッセイなんてみな自慢話だ、にも共通する。だいたい自分のことを書いてみせびらかすなんて自慢以外のなにものでもない。競馬で勝ったオヤジが大宮のいづみやでホッピー飲みながら、一万円札がつまった財布をあけてみせているのと変わりない。ドーダ、おれの頭のなかには、こんなものが詰まっているんだぜ、頭いいんだぜ、いい感性しているんだぜ、物知りなんだぜ、こんなことを知っているぜ、世の中のことわかっているぜ、生活感覚はないし経済のことなど知ったことではないですなあ、人生は趣味道楽ですよ、どうですイイ趣味道楽しているでしょう、使われているだけのただのリーマン生活なんかクダラナイですよ、おれは原稿書きだぜ、本は残るぜ、今日は3枚書いた、とにかくあいつらクダランぜ、…ドーダ。それが活字だの本だのってことになると文化っぽい虚飾にまぎれる。箔になるというのかな。おれも、そこそこやっているなあ。
「ドーダの人々」はおもしろい。東海林さだおって、とんでもないことを思いつくとおもう。それにしても活字業界はドーダ人だらけだ。
ところで、ヤスlogさんのばあい、「ドーダの近代史」のことだ。おれは、この本があるのも知らなかった。読んで見たいとおもうが、ヤスlogさんの締めの文言がいい。「だから、忘れちゃいけない。ドーダが冗談だってことを。快刀乱麻のドーダの斬れ味が、歴史のうちに何かを見えるようにしたと同時に何かを見えなくしてしまっていることを。」
けっきょく、すぐ自慢しちゃうというのは、お調子者とか、謙虚でないとか傲慢だとか慢心だとかいわれるのだけど、そういうこともあるかもしれないけど、それだけじゃないだろう。あることのよい面、プラスの面だけを、それはたいがい自分にとって都合のよい面プラスの面であることが多いと思うが、そちらだけを評価し、そのことによって失われることやマイナス負荷については見てないということもあるような気がする。だから手放しで、礼賛したり、共感したり、よろこんだり、泣いたり、悲しんだり、舞い上がったり、して、ドーダをやりたくなる。ちかごろ、とくに縄文文化と向かい合ってきたりすると、とくにそれを感じる。
「快刀乱麻のドーダの斬れ味が、歴史のうちに何かを見えるようにしたと同時に何かを見えなくしてしまっていることを。」と書かれているが、「快刀乱麻のドーダの斬れ味」のみならず、ちかごろの人間の考えることやっていることは、そういうことがゴロゴロあるような気がする。情報社会のせいか?
ドーダ、やってしまうけど、みっともない。ま、アタフタふりまわされないことだ。ひとをふりまわすのもよくないが。ゆっくり交わりからみあって編み上げるようにすればよいのだ、縄文の文様のように。ちょっとぐらいのことで人の上にたつ何者かになった気のやつが多すぎる。というドーダなのだが、ドーダ!
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