再び書肆アクセスの閉店について
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あれは、チト体調も悪いなか急いで書いたので、アイマイに終わっている。いま、ここに簡単に書き足せば、なぜそんなに「書肆アクセスの本」づくりを急がなくてはならないのだろうか、チト拙速ではないかというのが、印象だったのだ。
ま、おれは、あまり何に対しても期待を持たないほうだから、あきらめもはやく、ああ、世の中こんなものだなと思って、もうこのことについては二度と書くことはないと思うが、その印象は、じつに釈然としないものだったし、いまもって釈然としない。
古い考えかもしれないが、一つの店が経営にゆきづまり(という理由)で閉店するということは、けっこう重い問題だと思う。そこで働く人間にとっては、働く場が失われるのだ。ましてや、それが知り合いのことであり、しかもきわめて成り立ちの難しい分野での事業に関わってきた。
いや、それは、「書肆アクセスの本」づくりとは別のことですという考えは、たしかにあるだろう。自分たちが好きでカネを出し合い手弁当でやることです、ほっといてください。そういう言い分もあるだろう。それならそういうやり方があるだろうとも思う。
でも、どのみち、事実は「閉店」という一つのことから出発している。倒産とはちがうが、これは大勢が関係する一つの社会的ジケンなのだ。その一つのことに対して、まだあれこれ思案や当惑や疑問などの右往左往があるうちに、すぐさまやり手の葬儀屋がやってきて墓を建てるように「書肆アクセスの本」づくりというのは、いかにも、一つの店舗一つの職場、そこでの職が失われることについて軽い印象を受ける。というか、受けたのだ。
もっとも派遣労働者の問題も含め、ちかごろは仕事や働く場が失われることについて、とても軽くなってきたように思う。今回も、そういう世相の反映なのだろうか。労働や職場を大事に思う、おれはいまはフリーだけど、そう思う古い人間で、こういうことが気になりグズグズ考えるわけだ。
もしかしたら、こういう軽さが、閉店という結論につながる日常をつくっていたのではないか。自分は閉店には関係ないという顔をしてないで、そういうことも考えてみる必要がありそうだ。
それにしても、軽くなったなあ。
何か順序がちがっている。
世の中、こんなもんだよなあ。
という、これは、つ・ぶ・や・き。流れは、こんなタワゴトに関係なく、着々とすすむのだ。
塩山芳明さんの「日刊漫画屋無駄話 其の2244」によれば、「「書肆アクセス」の3人女、全員首なんだと」だそうだ。
首を切るほうも軽ければ、ただちにワイワイ集まりその記念碑のようなものをつくって既成事実化する動きも軽い。そして「記録」の華々しい「成功」のうちに関心は別のことに軽くうつっていくのだろう。
こんなやりかたで「記録」されるものは、それが「記録」として、どんなにリッパなものであっても、庶民からすれば価値のない一級史料のようなものではないか。ま、それでも、作ったものは「作った」満足が残るのだろう。しょせんその満足なのであって、地方・小出版流通センターの直営店「書肆アクセス」のことではない。そうとしか思えない。
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