すぎていくこと、よみがえること、シャッターは閉じたままか
きのう世間は休日だったらしいがアレコレあり、アレコレすぎていくうちに、「雲のうえ」5号の入稿前の校正も終えた。オオタニさんから深夜のメール便で入稿作業も終わった連絡があり、初校は来週。完成が楽しみになってきたが、それより、すぎた暑く熱い日々が思い返される。
このシゴトは、おれのまあ、あと残された人生の記憶に残る屈指のシゴトになったことは間違いない。まだ完成してないし評価もわからないうちに、こんなことを書くのはオカシイかも知れないが、他者の評価と自分の評価はちがうからね。他者は、結果を見ての評価で、それはそれ。
いま振り返ってみると、めったにない顔ぶれが、そもそもおれがそこにいることがイチバン不思議である顔ぶれなんだけど、それにしても、写真のサイトウさんも、編集委員のマキノさんも、オオタニさんも、もちろんアリヤマさんは押しも押されぬ、みな専門分野で高い評価を得ているひとたちが、その才能など世間の評価は高くても、自分にとってはまるで関係ないかのように、きわめて愚直にやる姿を見た、というか、そのようにシゴトはすすんだ。それは、いつものことらしいが、今回はとくに、役所の担当者も含めて、食堂という愚直に生きる以外ない対象をテーマにするには、またとない顔ぶれだったといえる。その意味で、おれは幸運に恵まれたと思う。その幸運を、うまく生かすことができたかどうかは別にして。
とにかく、いわゆる出版業界の仕事では、そこにあるヘドロのような歴史的沈殿物を意識しながら仕事をせざるを得ない。もちろん、おれは、そんなことを気にするほど繊細ではないのだけど、やはり、そこにある小賢しさ、とくに東京的中央的小賢しさ、業界的小賢しさ、あるいは文章表現的という意味での文学的な小賢しさをイヤらしく感じながら仕事をしてきた。今回のシゴトでは、それが、まったくなかった。
いま、そのことが何なのか、その拠っているところは何なのかといえば、わかりやすく言えば『クウネル』のキャッチフレーズ?にある「ストーリーのあるモノと暮らし」ということになるだろう。おれは、『クウネル』の熱心な読者じゃないけど、『クウネル』の優れているところは、そこだと思う。
愚直に、「モノと暮らし」にあるストーリーを発見し、かつ、そこに自分なりに(ということは編集は編集なりに、デザインはデザインなりに、写真は写真なりに、文章は文章なりに、読者は読者なりに)ストーリーを織り上げていく。ま、人生、どんなことをしていても、それしかないはずなのだ。そういうふうに、今回の編集作業は、すすんできたと思う。
そうすることで、とくに現代のマーケティングや消費主義的行為のなかに沈殿してしまいそうなモノや暮らしがよみがえる。のだと思う。
おれとしては、今回は、なるべく「うまいもの」話を避けた。「うまい」という表現も、個別の食べ物に対する表現としては避けた。そのことによって、一つは、もっとも直接的には、とくにグルメブームによって、舌のことに矮小化されてきた味覚を、その感覚を自由によみがえらせることができると信じているからだ。
もう一つは、なにか残るものとして文章を書くのではない。ましてや、そのことで自分の実績や名を残そうなんてのは傲慢だろう。記録は、記録されることに意味があるのではなく、そこにどういうストーリーがあるかなのだ。
いまの関係をどうするか、つまりは関係する人たちと、ストーリーを、どうつくっていくかという取り組みだ。そういうものとして、おれの取材や文章を書くということがあった。ようするに、生きているときの関係が大切なのだ。それが小賢しいものならば、そういうものしか実態としては残らない。表現は、「ごりっぱ」でも。
ま、そういうことを、いま振り返っている。シャッターは閉ざされているのか、少しでも開くのか、まったくわからない。しかし、その前に立ちながら、そのように積み重ねる以外ない。愚直だろうと。
| 固定リンク | 0
この記事へのコメントは終了しました。
コメント