もっと現場、もっと現場的に! びっくり青森の三内丸山遺跡のヒスイ
この夏のオドロキといえば、7月29日に「四月と十月」古墳部で訪れた、青森県の三内丸山(さんないまるやま)の縄文遺跡だが、なかでも、このヒスイにはおどろいた。
直径4センチぐらいか、あるいは5センチはあろうかという大きさ。これはヒスイで有名な新潟県糸魚川の姫川のヒスイなのだ。いまから4000年前ぐらいか、この遺跡の縄文人は、なんらかの方法で新潟県の富山県境に近い位置にあるそこから、これを、たぶん原石だろうが手に入れ、美しく仕上げる加工をした。
たしかに東京は上野の国立博物館へ行けば、さまざまな選りすぐりの出土品にまじり、見事なヒスイの装飾品を見ることができる。だいたい、出土品のなかの選りすぐりは、東京の学術的権力や権威が、地方から召し上げてしまう。地方の学芸員は歯軋りしながら、それに従わざるをえない。だけど東京の連中は、それがそこにあるのはアタリマエと思っている。不思議に思わない。買ったと思っているのか?これはなんだか、大英帝国が「未開地」から略奪的方法で、いろんなものをかきあつめた大英博物館の構造に似ている。近代日本は、なんでもイギリスの真似をしてきたことを思えば、さもあらん。
たしかに東京は上野の国立博物館へ行けば、選りすぐりをみることはできるかも知れないが、陳列棚にならぶそれらを見ても、実験室で実験サンプルをみるとおなじだ。オリジナルな感触は、わずかにしか伝わらないし、微細は観察できても、全体像は把握できない。タコツボのなかで微にいり細をうがつ隘路に入る。だから東京にいると、そういう通ぶった微細な話が好きになるのだろう。すべては他のものと一緒に現場にあるべきであり、現場へ行き、現場のなかで、五感を働かせ、眺め考えるべきなのだ。
三内丸山のばあい、現場に立っておどろいたのは、その広大な面積だ。そして、子供の墓場、大人の墓場、ゴミ捨て場など、あるていどの「計画」を思わせる配置だ。マスコミの報道でも有名になった、巨大な構造物。報道されたのは、どこかの学者が、土にあいていた穴の大きさや深さ、そこに残っていたクリの大木などから、想像したもので復元でも複製でもないのだが、現場で見ると、その想像は間違っているのではないかと思われるほど違和感があった。そういうことも含め考えさせられる。
そして、いったい、そこにあった文明や文化はどんなものだったのか、彼らはどんな人間で、いったいワレワレの先祖といえるのか、日本人はどこからきたのか、どこへいくのか、などなどいろいろな想像がわく。
すでに2007/08/01「縄文のコメは何を語るのだろうか」に書いたが、青森の他の縄文遺跡では日本最古といわれるコメが出土している。だけど、そこでは農耕の痕跡のたしかなことはわかない。ところが、この三内丸山遺跡では、木の実などの収穫のために、それらを栽培していた痕跡があるとのことだ。ここの縄文人は栽培文化を持っていたらしいのだ。ならば、そういうことが、このヒスイにも関係あるはずだ。縄文人は狩猟と採集の生活で栽培はしてないというのが、これまでの常識だったのだが、栽培をするようになった縄文人は油断ならない連中だったにちがいない。
一緒に見ていた古墳部の美術家の一人が、ここの人たちのセンスって都会人のセンスだね、三内丸山は縄文の都会だったんだ、と言った。なるほどな、あんなにデカイごみ捨て場まであるのだし。ゴミ捨て場は、海岸を埋めたてるのと同じように、谷を埋めるように造られていて、おれは山間の産業廃棄物処理場を思い出した。栽培したり、ゴミをたくさんだしたり、三内丸山の縄文人は都会人のような環境破壊者でもあったのだろうか。だんだん縄文人がちがってみえるのだった。都会人は油断ならないものな。
縄文は、まだまだ謎だ。
いろいろなこと、謎は多い。だから現場へ行くのだ。
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