雲のうえにいたる下関
昨夜というか今朝、オオタニさんに送った「雲のうえ」の原稿は、大きな直しはなく、すべて電話で解決。「よくできました」印?ぐらいにはなったか。
昨夜送るまえに読み返したときは、疲れていたせいか、なんだか勢いがなくてイマイチだなあという感じだった。ところが、朝起きて見直したら、けっこういいじゃないかと自分でも思ったぐらいで、心配するほどではなかった。
今回手こずったのは、写真のキャプション22本で、こういうのはほとんどやったことないから、しかも字詰字数に合わせながらだから、時間をくってしまった。最後は、いろいろ直されてから考えればいいやとヤケクソで書いて送ったら、これがほとんど直しがなく、オオタニさんに感心されたので、おれって、やはりなんかデキル男なのだろうかと、ま、そんなことはおもわねえが、やれやれと一安心。
「雲のうえ」に関しては、今週はこれでオシマイで、来週に校正、そして入稿。あとはバタバタとすすむことになる。
ふつうは取材からやる仕事を、ロケハンからつきあい、掲載する食堂の選択や全体の構成など、半分ぐらい編集委員の仕事にからんだ恰好だったので、オオタニさん、マキノさん、アリヤマさんたちのあいだで、いろいろ勉強になった。とくに編集のオオタニさんの手腕というか才能、助けられたし、ははん、このひとがいて「雲のうえ」はできているのかと思ったりもした。オオタニさんには宣言してあるけど、5号完成のときは、「オオタニ讃歌」を当ブログでやりたいと思っている。
それはそうと、7月のロケハンでは、行きに寝台特急を使った。この列車は関門トンネルに入る前、下関駅に少し長い時間停車した。そこで感慨深く思い出したのだった。
おれは1971年のおわりごろか72年あけてからか、あるいは72年のおわりごろ、下関へ行っている。28か9歳ぐらいか。それは、おれが食文化なんてものに関心を持つことになった、食のマーケティングの仕事にからみだしたばかりで、クライアントの主力工場や大きな得意先であるスーパーなどを取材したり見たりするためだった。
クライアントは丸の内に本社があるが、もとは下関が本拠地の水産会社から始まっている。下関漁港周辺に、大きな食品加工の工場や、さまざまな設備を持っていた。
そのとき下関では工場を中心に見たあと泊まって、九州へ行き、順序は忘れたが、小倉、博多、熊本、大村、長崎あたりをまわった。大村と長崎では工場を見た。と記憶している。佐賀も行ったかな?
というわけで、今回おれが北九州の食堂の取材をやることになったのは、もとはといえば下関を初めて訪ねたころから始まっているのだなあと、しみじみ、この世の人生の展開はどうなるかわからんものですなあとか、思ったりしたわけだ。
ってことで、本日は、その下関についた朝のホームの画像、鉄ちゃん風に、列車を入れて撮影した。これは7月17日(火)だね。このホームを、この先、門司へ向かって列車が走り出すと、すぐ右側の下関漁港の岸壁に、あのとき訪ねた工場が建っていた。おれは、数十年の歳月を思ったのだった。よく酒を飲んだなあ、と。
それで懐かしくなり8月末、再度、本取材で北九州へ行き、終わってから普通電車で下関へ向かった。けっきょく、その夜は下関に泊まることにし宿をとり、夕方散歩に出て、むかしの記憶を頼りに歩いてみたのだった。
画像は、そのとき、下関漁港の岸壁で撮った。正面奥が漁港の深奥部で、訪ねた工場は、そのあたりにある。これは、8月28日(日)の夕方だね。
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