「普通」の一瞬の輝き。1977年キャンディーズ「普通の女の子に戻りたい」。
チト仕事のために資料を見ていたら、どういうわけか。わきみちからわきみちへとそれ、キャンディーズにたどりついてしまった。
1978年4月4日後楽園球場で行われた、キャンディーズのさよならコンサートのカセットテープは、何度も聴いた。どちらかといえば、このときに歌った、洋モノのカバーが印象的で、あらためてキャンディーズをみなおしたのだった。とくに、「朝日のあたる家」は、ずっと記憶に残っている。
彼女たちは、いまから30年前、1977年7月17日、日比谷野外音楽堂のコンサートで「普通の女の子に戻りたい」と、トツゼン引退を宣言した。多くの人びとのあこがれである普通ではない「芸能人」になったのちのことだ。
その「普通」という言葉を、当時の普通の人間だったおれは、どう思ったか。ああ、普通が大事だよ。
でも、80年代は、ますます普通であってはイケナイ時代になった。ワンランク上、「個性」的、自己実現、自己表現、仕掛け人……普通ではなく突出していなくてはならない、目立たなくてはならない、「凡」ではいけない「奇」でなければ。あるいは「究極」とかね。
ひとを殺してもいい有名になりたい。自己を「商品化」し付加価値を高める時代。みなメディアへの露出を競った。みな「芸能人」のようになりたがった。必要以上に自慢し、必要以上に知ったかぶりをし、必要以上に自分を演出する。過剰化する自意識。そのまま、コンニチなのだな。
キャンディーズのさよならコンサート、最後の曲は「つばさ」。いまYouTubeで見たら…クリック地獄、舞台のラストには「FOR FREEDOM」という言葉が輝いている。「普通」と「自由」、深い関係にあるのだな。普通ではない人間をめざして、より自由を失う時代が続いている。ということか。
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コメント
この70年代後半から80年代前半は、なかなかオモシロイことに気がつきました。この時期に、何かが終わり、何かが始まったような。とくになにもかも「過剰」になり「普通」の核が崩壊していくような。
ピンクレディは、やはり周囲の「ショー・ビジネス」の演出が過剰で、私などはついていけないという感じでしたが、キャンディーズは、そうでもなかった。ま、歌が上手な普通の女の子という芯があったように思います。この解散は、その結果でしょうね。
ファンというほどではなく、当時はマーケティングの現場にいたから、イチオウ流行風俗には関心を持っていた中の好感の持てるグループだったというか。それから、当時は、ノンブランド商品が市場を形成していく時期で、「ブランド派」か「ノンブランド派」かといったぐあいに話題になりましたが、ノンブランド派とキャンディーズファンは重なるところがあったように記憶しています。
投稿: エンテツ | 2007/10/17 15:58
良いものを見せてもらいました。二つほど観ました。先ず、1978年だったのが意外で、全員集合?のバックのドンバーを聴いていると、高度成長期に繋がっている響きが聞けます。そして、それもおいおい昔話となって来つつある時代。
仰るように、その後のピンクレディなどと比べると、「自己実現、自己表現、仕掛け人……」の智恵が見えますね。その後のなんでも良いからやってしまえとは少し異なる工夫が、裏方を含む歌や衣装や振り付け仕事にあるような気がします。
謂わば、来る「奇」や「極」からドロップアウトする心情は共感を持てますね。それにしてもキャンディーズ・ファンで居られたとは。スーちゃんですか、ミキちゃんですか、それともランちゃん?
投稿: pfaelzerwein | 2007/10/17 12:57