貴族趣味と「おかず」のゆくえ
「おかず」という言葉は「御数」であり、もとは「お菜」だった。「お菜」が「おかず」になるには、貴族社会の宴会の膳の様式の変化が関係する。はやい話が、チトいつごろ変わったかすぐ思い出せないが、酒の杯がめいめいの膳に置かれるようになったころだ。その前は、大杯のまわし飲み。
大杯のまわし飲みのときは、一献目は、この料理、二献目は、この料理といった決まりごとがあった。この場合の料理は、肴であるけど、また「献立」という言葉もそこから生まれた。そのように「伝統的な日本料理」が成り立っていた。
で、杯がめいめいの膳におかれるようになると、献ごとの肴のしばりはなくなる。というわけで、「肴のほうは、お膳の上へむやみに物を並べなければ承知できなくなってきた。そうしてお菜がおかずという言葉に代わってきたわけです」ということになる。
「おかずとか数の物という言葉は宮廷で使われていた言葉でありました。やがてみなさん方がみな貴族になってきたという感じを深くするのですが、もう一ぺんわれわれの食生活というものを反省してみていい時代にきているのではなかろうか。」
これは1980年講談社から発行の『食の文化』に書かれていることだ。ところが、先日書いた07/10/07「「趣味的生活」と「労働的生活」のゆくえ」に関係するが、80年代にますます貴族趣味がはびこり、汗水ながして働くことは疎んじられ、危険な仕事についているひとを尊敬するどころか「3K」と揶揄する、それまでの「労働的生活」は「貧乏くさい」ものとして葬られた。みなさん方は、ますますみな貴族になって、コギジャレた文化的な「趣味的生活」へ向かう。金持ちも貧乏人も。
ま、いまだって、おれが大衆食だ大衆食堂だと騒いでいると、「貧乏くさい」と眉をしかめる人たちがいる。
いやさ、あんたら、ほんとうに貴族ならいいのだけどね。
大衆食堂や大衆食堂の食事が「貧乏くさい」とみなされるのは、根拠がない。そのものが「貧しい」というより、「貴族趣味」からの視線がたぶんにある。
なにか価値基準が、実態から遊離しているのだ。ま、そのおかげで、政府も経済も、なんとなく泥舟のまま保っているという感じでもあるのだが。
「もう一ぺんわれわれの食生活というものを反省してみていい時代にきているのではなかろうか」という主張は、たしかにそうなのだけど、とても無理だろう。もう、この主張から20年以上すぎているなかで、しみじみ思う。
それは貴族でもない大衆なのに、貴族趣味に陥った自らをどうにかしなくてはならない、そのうえ大勢の傾向としては実態を直視した反省が苦手であるから、これはもうまた敗戦なみの混乱に直面しないかぎりムリというものである。いまや趣味的生活のためなら独裁政権だろうと容認しそうだ。ま、そんな状態が続いている。
しかし、食品の値上がりが続き、消費税も上がり、また北京オリンピック後に予想される金融市場の激動など、はてさて、いつまで貴族気どりでいられるのだろうか。
市民的生活の向上と、貴族趣味の幻想、そのちがいを自ら判断できるかどうか、それなくして、とても「反省」など望めない。また反省らしいことをすると、たちまち「粗食」だの「倹約」だのということになってしまう。反省が市民的生活の後退であっては、なんの意味もない。急激な環境変化は、そうなる可能性もはらんでいる。
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