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2007/10/15

「料理研究家」とは、その芯と輪郭

「料理研究家」について考えている。直接的には、まもなく発行になるだろうと思われる「書評のメルマガ」で、「料理研究家」の肩書を持つ瀬尾幸子さんの本を取り上げたのがキッカケだ。

で、たまたま古本屋で見かけて買ったが、まったくツマラナイからほっておいた『「料理研究家」たち』(宮葉子著、NHK出版)をパラパラ見ていた。

この本がツマラナイのは、まさに著者が「「料理研究家」とは」、ということを考えないまま、「料理研究家」にインタビューしているからだろう。とくにおれのばあい、文章のうまいへたなど、あまり興味はなく、よくこのブログで使う言い方だが、対象への向かいかたや、視線の持ち方から伝わるものを大事にしている。どんなに文章がうまくても、それがなかったら、読み取り継ぐべきものが一つもないにおなじ、中身はからっぽというやつだ。

これは、べつの言い方をすると、モノゴトを「芯」でとらえるか「輪郭」でとらえるかに関係すると思う。どちらでとらえるかというより、芯がなくてはお話にならないと、おれは思っている。この本の著者の宮葉子さんには、芯でとらえようとする考えというか姿勢がない。

本書は、5人の「料理研究家」にインタビューしてまとめている。登場するのは、藤野真紀子さん、有元葉子さん、上野万梨子さん、北村光世さん、枝元なほみさん。この人選そのものからも、「「料理研究家」とは」を追求する考えのなさをうかがわせるものがある。

ま、それはとにかく、このなかで、やはり異彩をはなっているのは、有元葉子さんなのだ。

「書評のメルマガ」で「料理研究家」の著書を取り上げるのは、瀬尾さんで2回目。これまで連載8回目の04年10月7日発行vol.183で『有元葉子の料理の基本』(幻冬舎) を扱っただけだ。…クリック地獄

有元葉子さんには共感するところが多い。というのも、このひとの料理の「芯」には、日常茶飯つまり「ふだんを大切にする」という考えや姿勢があるからだ。それは、有元さんの著書である『わたしの日常茶飯事』(ちくま文庫)のタイトルになっている通りだ。

で、今回、このインタビューを読んで気がついたのだが、有元さんは、あまり「輪郭」の話はしない。そこが際だっている。料理を芯でとらえようとしているか、芯でとらえている。輪郭は、とにかくボンヤリしている。芯を深める、肉付けした結果なのだ。

こういうの、おれは好きだな。たとえば、絵でも、牧野伊三夫さんの絵は、輪郭がはっきりしていない絵が多い。何度も一緒に飲んでいるから、本人についても知っているが、本人もそういうひとだ。輪郭のはっきりした空間の飲み屋は嫌う。絵ということでは、なかだえりさんも輪郭のアイマイな絵が多いし、そもそも著書に『とらえどころのない曖昧な輪郭』があるぐらいだ。

絵のばあい、輪郭がアイマイというのは、必ずしも輪郭線は使わないということではない。芯でとらえて、輪郭は自由である、という感じかな、あるいは柔らかいとか。腹から出ている声のような。輪郭がないとかあるとかではなく、とにかく、対象を芯でとらえる。

一見、輪郭がアイマイのようでいて、はっきりしているものもある、好きな人が多い、印象派の絵など、そうだろう。

なんでも輪郭がはっきりしているほうが好まれる傾向がある。カプセル入りの粉薬のように、きちんと輪郭のはっきりしたコンパクトにまとまった話が、「わかりやすい」と好まれるようだ。芯などなくてもよい。大方のグルメ談義とは、そういうものだ。もちろん、輪郭がはっきりしているからといって、芯がないとは限らない。芯に向かう姿勢や視線のモンダイなのだ。

最近、『雲のうえ』の仕事で、おれは初めて、文章の「起承転結」を芯から説明するひとに出会った。編集のオオタニさんだが、そのことは、今月末『雲のうえ』5号ができあがったら、すでに予告してあるように、「オオタニ讃歌」をここに書きたいと思っているので、そのときにしよう。

で、「料理研究家」とはについて考えたことは、例によって書くのがめんどうになったので、またそのうち。

話はちがうが、今日は、御徒町で打ち合わせがある。きのう、アメ横で暴力団の元幹部?が射殺されたらしい。その現場を見て行きたいと思っている。

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