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2007/10/12

昭和の労働的生活を語る広告

Koukoku_kesyouhin昨今の「昔はよかった」の「昭和ブーム」だが、これもある種の貴族趣味といえよう。大衆酒場や大衆食堂や立ち飲みなどで、繰り広げられるそれは、徒然草や方丈記のような隠遁隠居の貴族趣味的でもあるし、昔から貴族趣味として盛んだった「下層趣味」にも似ている。ただホンモノの貴族ではないぶん、かえって卑しく出るようだ。

それらを舞台に通ぶり、「手づくり讃歌」だの「人情讃歌」ともすると「近代文明批判」のごたくを並べ、自分が何か生活や食に関して正しい眼力や審美眼の持ち主であるがごとき言辞を弄し、その守り手、旗手のごとく大見得を切る。これは、ある種の虎の威を借るキツネに似た行為だろう。

大衆酒場や大衆食堂や立ち飲みなを支えてきたのは、そのような「通人」たちではない。それらは、とりわけ昭和の労働的生活が育てた。

それはともかく、昭和の労働的生活、その風俗は、どのようなものであったか。画像は、『週刊文春』昭和35年12月26日号に載った、説明するまでもない有名化粧品会社の男性用化粧品の広告。右肩にシリーズタイトルがあるのだが、それは、こうだ。

「男性を訪ねる」

見てわかるとおり、これは溶接工。溶接工が、こういう広告にのる、それが昭和の労働的生活だった。

はて、しかし、そこから何を考えればよいのだろうか。いまチョイトした「遺産ブーム」で、「工場遺産」は注目されるようになったが、そこにあった暮らしのほうは、あまり話題にならない。

いまだって、たしかに年金暮らしや金融生活者はいくらか増えたかもしれないし、そして労働のスタイルの変化は大きいが、たいがいは労働的生活を生きているのではないか。

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コメント

からすさん、どーも。

>かつての重厚長大産業と大衆食堂は、「必然」であり「セット」だったのですね。

そういうことですよね。ま、工場と「セット」だったというか。東京の場合も、「京浜」「京葉」といわれた工業地帯があって、都内の浜松町あたりから南は、「南部工業地帯」、墨田、江東、江戸川も工場だらけだった。

東京は、もうそういう記憶すらなくなりそうだけど、北九州は比較的ゆっくりした変化で、ま、だから「遅れている」とみられるのだけど、東京のように「進みすぎて」問題の多いところをみると、むしろマットウなような気がしないでもない。

昭和をふりかえることが、自分たちの働いて生きる「土台」を認識するということでないと、東京のように、アイデンティティが崩壊しつつフワフワ浮ついた街になっていくのかなあ。とか、北九州で思ったわけです。

投稿: エンテツ | 2007/10/13 13:14

 神戸の「新開地本通り」、エンテツさんもご存知の街かと思いますが、かつて「東の浅草、西の新開地」と呼ばれた通りです。

 この通り、かつての「新開地」電停から南へ、国鉄神戸駅横でガードをくぐり、国道2号を越してからは「川崎本通り」と名前を変えてさらに南へ、ずんずん真っ直ぐ伸びて、「川崎造船所」のドックに行き当たって終わります。

 かつては、新開地電停から、またその北側の「湊川駅」から、造船所に通う人々の「通勤路」で、朝は工場へ向かう人々で、夕には工場から帰る人々で、埋め尽くされてたそうです。

 そこに、映画館や劇場やストリップ小屋や食堂や居酒屋やらが集まって、大繁華街が形成された……そうです。

 こないだエンテツさんが行かれた「北九州」もそうだと思うんですが、神戸は、この「川崎造船」の新開地界隈に限らず、「住友ゴム」の葺合・春日野道近辺、「神戸製鋼」の灘・水道筋界隈、「三菱ドック」と「川崎重工」の兵庫・和田岬界隈……と、今もなお安い居酒屋や大衆食堂の多い地区には、必ず、かつての「重厚長大」工場またはその「跡」がありますね。

 かつての重厚長大産業と大衆食堂は、「必然」であり「セット」だったのですね。
 あらためて、思い知りました。

投稿: からす | 2007/10/12 22:16

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