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2007/10/03

『汁かけめし快食學』絶版によせて。おれが愛した大衆食。

『ぶっかけめしの悦楽』の出版社は倒産、『汁かけめし快食學』は絶版処分。これで、汁かけめしに関する本は、本屋市場から消える。

この結果は、とりあえず、こう見てよいだろうと思う。つまり、出版社のがわからも、市場あるいは読者のがわからも、汁かけめしの文化や歴史は、とるにたらぬものと、ひとまずお払い箱になった。

『ぶっかけめしの悦楽』『汁かけめし快食學』は、いくつものテーマをからみあわせて成り立っている。やや錯綜しているし、錯綜のままに書いているが、カレーライスの歴史をどうみるかというのが、一つの大きなテーマである。それはまた、日本の食文化の歴史、とりわけ生活の中の料理の歴史をどうみるかに密接に関わっている。

その内容について、ここでは繰り返さないが、では「カレーライスの現状」は、どうか。これは広く流通している(つまり売れている)出版物のカレーライスの話からの、寄せ集めとしてみるに都合がよいので、『ウィキペディア(Wikipedia)』にある「カレーライス」を例にする。ここで採用されているような話を書いている本が売れている本だといえる。そして、ここには、「汁かけめし」という言葉すら登場しない。

で、結論を急げば、その話のほとんどは、生活の実態とまったく無関係なのだ。たとえば、それは「日本のカレーライス」について、「カレーソース」の項目から始まっている。ここから始めることが、あとの「軍隊とカレーライス」とのつなぎのうえでも意味を持つのだけど、そもそもなぜ「カレーソース」から始めるのか、なぜ「ソース」なのか、その説明はないし判断つくだけの内容がない。ましてやそれと生活の実態の関係は、いっさい説明がない。

「カレーライスは日本にはヨーロッパを経由して紹介された。最も有力なのはインドを植民地にしていたイギリス人が日本に持ち込んだ説である。」という前提で話は始まり、「カレーソースはジャガイモ、玉葱、人参などの具を煮込んだものにカレー粉を入れ、小麦粉を加えてとろみを出したソースである。」と決めつけられている。その根拠もあげられてないし、それが最初からの生活の実態なのか、それともいつごろナゼそのようになったのかの検討もない。そもそも「カレーライス」というのに、「ライス」料理への視線は、まったくない。

海軍や陸軍で、カレーライスを食べていた。だから、カレーライスは普及した。この単純なリクツも、ここで繰り返されている。しかし、そこにも生活の実態はない。軍隊で食べていたものが、すべて家庭に普及したというのなら、軍隊以前と以後と、食生活や料理に大きな変化があってよいはずだ。そうではなくカレーライスだけが、そうだったというのなら、そこになにか「生活の理由」があるはずだろう。

そもそも、おれがガキのころには、チマタには兵隊さん帰りがたくさんいて、そんな話ならいくらでも聞けたはずなのに、聞いたこともない。だいたい、カレーライスの本をめくりかえしても、「軍隊から説」は、きわめて新しく創作されたことだ。生活の中での証言など、採取は少なく、その少なさは、たとえば江原恵さんが『カレーライスの話』で行っている北海道での聞き取りや調査の数にも及ばない。

おかしいとこを上げれば切りがない、ほとんど根拠薄弱なことだらけ。はやい話が、カレーライスのエピソード集なのだ。たいがいの「売れてる本の」、食べ物や料理の「歴史」というのは、そういうものだ。だから、ここで、そんなマジメに、食文化史や料理史から批判されても困る、というあたりだろうと思う。

しかし、考えてもみよう、いま、そのようにカレーライスに関するエピーソードを開陳できる楽しみは、どうつくられたのか。それは、カレーライスが「国民食」といわれるほど、広く普及したからではないのか。「広く普及した」というのは、大衆の生活の中でつくられ食べられるようになった、ということではないのか。

生活の中では、料理はどうつくられ、どう普及するものなのか、ぐらい考えてみてもよいのではないかと思う。本に載っていることが、生活の実態であるかどうか。あるいは本に書いてあることは、どういう風俗の反映なのか。いま、書店の料理本のコーナーに行ってみよう、あそこにある本は、すべて家庭でつくられているのか、生活の実態の反映なのか、これからすべて作られていくのか。もしそうでないとしたら、その取捨選択の基準は、どのへんにあるのか。

でも、そのように考えることは、あまり求められていない。つまりは、そういうことなのだ。

この問題は、食や料理にかぎらない。ほかの歴史や文化のことにも関係する。近年、各地に歴史的文化的遺産を守ろうとか、そういうことがあって、それはゼニ儲けの観光政策が多分にからんでいるのだけど、アチコチで歴史的文化的建造物などを「復元」している。そのなかには、山城の砦や櫓ぐらいにすぎなかったものを天守閣だのなんだのと、当時の技術とは無関係に復元する例もあるという。これはもうお話にならないにしても、似たようなことは、いくらでもある。それと、このカレーライスのエピソード集は、おなじようなことをしているのだ。生活の技術としての料理の実態について、歴史的文化的検討などせず、自分の都合のよいようにカレーライスの天守閣を構築している。

そして、農林水産省が実施している、「農山漁村の郷土料理百選」の中間結果の2位は、神奈川県の「横須賀海軍カレー」である。これはもういくらなんでもヒドイから、某巨大掲示板でも批判の声があり、もしかすると「自衛隊の組織票が動いているのか」といった声もあるぐらいだ。

ま、つまりは、歴史だの文化だのといっても、そういうアンバイなのだ。いいのか、それで。もっと考えるべきじゃないだろうか。と、おれは思う。

出版社にとって、本は数字である、フリーライターも数字でしかない。絶版という結果が出ても、べつにおどろかない。いま述べたようなことは、これまでの多くの「売れる」出版物の結果なのだから。

しかし、二つばかり疑問が残る。

たとえば食品メーカーならば、ひき肉にダンボールを混ぜることはしていけないことになっている。もしやっていることが見つかれば、社会的な指弾を受け、会社も倒産しかねない。こういうことは最近、よくあった。営利の追求はトウゼンなのだけど、表示と中身がちがうようなものを売ることはできない。だから、それなりに正しい物を売りながら経営が成り立つよう努力する。だけど、出版社は、表示は「歴史」や「文化」でも、中身がまるでちがうエピソードにすぎない粗悪品を売ることをする。それが許される。「言論の自由」「表現の自由」を隠れ蓑に。あるいは、タイトルに「物語」とつけて逃げをうったりして、消費者をごまかす。

売れるから売る、買う消費者がいるのだから、ということなら、表示と違う内容のものを売って「買う消費者が悪い」と言った、どこぞのくさった会社の社長とおなじだろう。そのようにして、カレーライスの歴史にしても、消費者の誤解を導くことをやってきた。その状態を、あまり問題と思っていないらしいのだ。

もう一つは、それと関連するが、計数管理で商品の販売を打ち切る例は、どこの企業でもあることだ。ただ、そこに、数字のさばきかた、成り立たせ方がある。それによって各社、商品の扱いがちがってくる。今回のおれの絶版の例にかぎらないが、ほかの例を聞いても、そこのところの基準がハッキリしない。フツウの企業なら、そこに経営や営業の姿勢があり、戦略があり戦術がある。それが、見えてこない。ま、たぶん、展望のないことをやっているのだろう。そのトバッチリを受けたほうは、いい迷惑ではあるが、そのキチンとやっているようでいて、方針の内容のないズサンな計数管理こそが、出版の命とりになっているような気もする。数字は文化である、ということを知ってか知らずか。

あれまあ、「おれが愛した大衆食」と、かっこういいタイトルを思いついたので、それについて書こうと思ったのに、チトちがったな。いつものことだ。では、今日は、この言葉で終わろう。

愛しているよ~、汁かけめし。


関連……2007/05/26「カレーライスの歴史 もうちょっと責任ある発言がほしい」……クリック地獄

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コメント

うにさま

二日酔いの頭で、このブログを見たら、
なんとまあ、うれしいコメント。

たしかに、ぶっかけめしがなくなることはなく、
こう暑くなると、朝のぶっかけは元気の素ですね。

とくに二日酔いの、なにもする気がおきない朝は、
ぶっかけめしを食べて、また寝るという怠惰が最高。

大いにぶっかけをやりましょうぞ。

投稿: エンテツ | 2009/07/26 13:43

 先日久しぶりにエンテツさんの、汁かけめし快食学を読み返しました。そんなこんなで、こちらのブログをのぞきに来たのですが、随分と前にこの本が絶版になっていたと知り、残念でなりません。(まあ、所持しているのでいつでも読めるのですがね、。)

 残念ですが、ぶっかけ飯がなくなるわけではないし、これからもガシガシ食われていくのであろうし、庶民に根付いている生活の一部ですから、、、。

 今朝もビシっとぶっかけましたよ。もちろん明日の朝もぶっかけます。

 通常夜は飲んでしまうので飯は食わないのですが、絶版を知ってしまった今夜は、レクイエムを捧げるためがっつりぶっかけます。

投稿: うに | 2009/07/25 18:12

おっ、どーも、はじめまして。
朝目覚めたら、とてもうれしいコメント、
ありがとうございます。

はげみになります。

これからも、よろしくお願い致します。

投稿: エンテツ | 2007/11/04 08:16

 はじめまして。

 先日図書館で偶然貴兄の書籍を拝見し、カレーライスと
汁かけめし、のご洞察よみ、とても感動しました。
 目からうろこ、といった感じでした。

 こんな素晴らしい本が、もう手に入らなくなるのは
とても悲しいことだと思います。


 お怒り、ごもっとも、と思います。

投稿: 大 | 2007/11/04 02:42

どうも、ありがとうございます。おひさしぶりです、私も、ご無沙汰のままですが。

ご指摘の点、相互に関係あるでしょうね。ま、あまり現実や歴史を直視するようなことは避けたい、権益を握っているがわはもちろん、大衆のがわにもあると思います。わかりやすい国民的一致結束が生き甲斐のような気風は、上から下まで同じような気がします。役人組織が、およそ信じられないような「組織ぐるみ」の不正ができるのも、おなじ根なのかも。個人主義の未成長もあって、なかなか根が深いような。

こういう状況を相手に、あまり突っ張っていてもしようがないから「転向」しようかな、なーんて思っています。好きな女をあきらめるような「転向」、できるかなあ。

投稿: エンテツ | 2007/10/05 14:10

素人考えですが、「通説の流布」には幾つかの問題が隠されていますね。

一つは、流入文化の実質やその経路などをなぜか正しく見ない・見せない伝統的な文化受容の仕方が存在すること。その輸入行程などにおいて権益のようなものが働いている場合が多いなどの背景事情がいつもあるのでしょう。

もう一つは、上にも関連するのですがご指摘のような文化が日本化する変容の過程を敢えて暈かしてしまう伝統。WIKIも拝見しましたが、ジャガイモの混入などは「臭い」にも拘らずなぜか触れられていないどころか、英国でも米にジャガイモが入っているような書き方。この芋と米の組み合わせは、アジアにおける薩摩芋飯以外には、私は聞いたことがないです。

更に一つは、出来るだけ単純で快い通説を喜んで受け入れる気風。それも出来れば、自らの口に合うものが本当はハイカラなものであれば良いと言う期待と汁かけ飯伝等では厭と言う感覚に、身近な生活信条や感覚にメスを入れるような暴露は困ると言う気持ちなどあるのかもしれませんね。

投稿: pfaelzerwein | 2007/10/05 13:47

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