「趣味的生活」と「労働的生活」のゆくえ
昨深夜と今朝で、「雲のうえ」5号の校正、細かい部分の修正もおわった。特集のタイトルは「はたらく食堂」。2ページから39ページまで、27店登場。
北九州の食堂の取材をしながら、頭の中に気になる言葉が浮かんだ。「趣味的生活」という言葉である。それが「良い」「善い」「望ましい」生活のモデルとして広く普及しだしたのは、いつごろからか気になりだした。アレコレふりかえってみると80年代ぐらいからのような気がした。
いまや誰も否定しない憧憬であり理想である「趣味的生活」によって、否定、あるいは捨てられ、あるいは忘れられた生活があるのではないか。そのことも気になった。それをなんと呼べばよいか考えていたのだが、どうやら「労働的生活」がイチバンぴったりするなと思ったのは、ごく最近のことだ。それは「はたらく食堂」の校正で自分の文章を読んでいて気がついたのだった。
そのことは、また追い追い書くとして、今朝から資料を片付けたり整理したりしていたら、まずその「趣味的生活」がいつごろ憧憬的理想的地位を獲得したか、その時代的背景に関係しそうな記述が一つみつかった。やはり80年代のことだった。
『コンセプトノート'84』(博報堂トレンド研究会、PHP出版)、このサブタイトルは「新時代を透視する9つのポイント」だ。
これは、それまで続いていたメインカルチャーの「挫折」と「崩壊」を論じ、「個人を主役として生活をグランドデザインする時代」を指摘している。
その挫折と崩壊のメインカルチャーについて、「これまで人間は日本を西欧近代化社会に近づけるための推進機関の歯車の一コマであった。高度経済成長社会を創り出すベルトコンベアーの一部であった」と断じる。そのような言い方で否定されたなかに、それまでの「労働的生活」が含まれているようだ。
そして「サブ・カルチャーの開花、浮上、肥大化」の新時代が訪れた。「ふと気がついたら数多くのサブ・カルチャーの花畑のまっただ中」。日本人は「働きすぎ」と、おなじ日本人が批判し、「アソビゴコロ」と「人並みをこえる」生活のイメージが広がる。そのサブカルチャー畑の広い裾野に登場したのが「B級グルメ」だった。
この本には「趣味的生活」という言葉は使われていないが、いまブログ上をにぎわす「趣味的生活」讃歌謳歌のコンセプトのほとんどは登場する。
いまでも「趣味的生活」を、生活の普遍的理想やモデルと考えているひとが多いようだ。しかし、これは、80年代以後の生産過剰、円高インパクトそしてバブルといった経済構造の変化が生んだ、見通しのないときの間に合わせともいえる。はたして、これから、さらに沈没していく日本経済のなかで、「趣味的生活」は、どうなっていくのだろうか。あるいはまた「労働的生活」の、昔のような「復活」はありえないにしても再評価はあるのだろうか。もとの「趣味」は、労働的生活を豊かにするものとして生まれ成長したように思うが、その歴史は、どうなるのだろう。もしかすると、生産のベルトコンベアの一部だった人間を、趣味(という消費やマーケット)のベルトコンベアの一部に導く姿が「趣味的生活」だったのかもしれない。
てなことを、とりあえず考えている。
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