わかれうた 口ずさむ
喪中のはがきが届くころから、亡くなったひとを思い出すようになる。幸いなことに、今年は身近に、亡くなったひとはいない。
去年は2006/12/11「ことし亡くなった人のブログ」に書いた、「たつ!」さんこと坂本達哉さんが6月2日に38歳の若さでなくなったのだった。おどろいたことに、その「たつ!」さんのブログだが、まだ残っている。
身近なひとが亡くならなくても、喪中のはがきのなかには、64歳?の自分の歳に近いか一回りぐらいしか違わない方も少なくない。するとひとごとには思えない。
中学の同期生と呑むときによく話題になるのは、これから10年ぐらいのあいだにけっこう死んで、そこで生き残ったものが80、90まで長生きするということだ。でも、自分がどちらになるかは、誰もわからない。どのみちこれまで生きてきた歳月とくらべたら、たいしたことではない。つまり、死が見通せるなかでの日々なのだ。とはいえ、おれなんぞは、自分の歳も忘れて呑んだくれているが。
いまごろになると、ひとの死とあわせて、そんなことを考えてみたりする。考えてみたところで、どうなることでもないが、いちおう、「たそがれ」を自覚する。
中島みゆきが、「わかれうた」で、
人ごとに言うほど たそがれは
優しい人好しじゃ ありません
とうたっている。
たしかに、そうかもなあと思う。この「わかれうた」は男女の恋のわかれだけど、男女の恋だけではなく、ひとはいろいろなことに恋するわけで、年末というのは、恋した今年のたそがれである、恋した今年とのわかれのときでもある。ああ、今年は、今年も、いろいろあったなあ。誰にも、あと何年残っているか、わからない。はやく死んでいったものが美しく思われる。
立ち去る者だけが 美しい
残されて 戸惑う者たちは
追いかけて焦がれて 泣き狂う
去る今年を追いかけて焦がれて泣き狂っても、すぎた月日がもどって来るわけじゃなし、「キモい」という言葉を投げて去った女がもどってくるわけじゃないんだよな。ま、去る今年が美しく思えて、多少感傷的になったとしても、「泣き狂う」ほど、もう「純」じゃない。クリスマスや大晦日に感動することもない。残酷に「残されて戸惑う者たち」に同情か連帯の杯をかざし、ひねくれ酒を飲む年寄り心のほうが楽しい。それが、「たそがれ」というものだ。うふふふ、おれの心はブラックだぞ。
死ぬまでに、これとこれだけは書き残したい、なーんていうおれぐらいの歳のライターというか作家もいるけど、おれにはそういうものもない。
なにもない。
でも、一年に一度ぐらいは、感傷にひたろう。わかれうたを口ずさみながら。
悔恨は去りゆく今年の海に投げ捨て、
荷物にならないていどのいい思い出と荷物になってもかまわない大酒を抱えて、
「たそがれ」の明日へ向かうのだ。
みんな、この「たそがれ」を生きるおれを、もっと大事にしろよ。クソッタレどもが。おれを大事にすることが足りなかったと反省したら、おれに酒を飲ませろ。
そういや、あの「秘田」は、どうなったのかな。
あっ、昼間から飲んだくれています。
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