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2007/12/11

忙中朝昼酒のなかでアレコレと考えた。

ここ2、3日、あまり酒も飲まずに夜更けまでオシゴトをして、日限まで仕上げなくてはならないものは仕上げたし、かなり片づいた。おかげで今日は、ほんとうはやったほうがよいことがあるけど、やらないでもよいから、朝から酒を飲んでいる。げっ、もう昼をすぎた。酒がなくなるよ~。

ちょいとメールのやりとりなんぞをして、おだやかな満ち足りた気分のなかで、アレコレ考えた。いいねえ、こういう酒は。なんだろうねえ、無目的に漫然と語り合うって大事だな。でも、なぜ電話じゃないのだろうか。それは相手によりけりで、電話よりメールがよいというひともいるし、メールより電話がよいというひともいる。おれの周囲では、電話がよいというやつは、たいがい長話が好きなやつだ。いいかげんにしろよな急がないならメールにしろ、と言っても、懲りずに長い電話をかけてくる。かかってくると、ほかのことで気がせいていても、相手をしてしまう。女のばあい、中にはだが、ほんの1人ぐらいだが、こちらが電話で話したいなあと思っても、メールでというやつもいて、ま、うまくいかないものだ。

お互いに、あるていど時間の余裕があるなかでは、メールでもこまめにやりとりできるから、今日は「質問」形式はつかわなかった。でも、ニュアンスが伝わってないなと思うと、いちいち説明を加えるメールをしなくてはならない。ま、だから、語尾によく「(笑)」とか使うのだろうが、おれはできたら「?」も使わずに書きたいほうだから、メールの短い文章のやりとりでは、難しいこともあるな。なぜかおれの書き方は、「皮肉」「辛らつ」に受け取られやすいらしい。

昔のひとは、長いあいだ会わずに、しかも時間のかかる手紙をやりとりしていた。このあいだから、真山青果著『随筆滝沢馬琴』をボチボチ読んでいるが、もとになっている資料は日記と手紙が主だ。手紙のほうは、馬琴の性格にもよるのかも知れないし、著者の引用の都合なのか、ほとんど馬琴の言いたいことだけだ。一度も会ったことがない、そして一度も会わずに終わるひとに、愚痴や後悔を並べたてる。

でも、考えてみると、簡単に往復やりとりできるわけじゃないから、マズ自分のことを伝えるしかないように思う。お互いに一方的に言い合いながら成り立つコミュニケーションといえるか。お互いに寛容と心の余裕が必要になるのではないか、それがあったのではないか。それはそれで、なかなかよいように思う。とくに、おれなんぞは「繊細」に欠けるとよく言われるわけで、それは相手の気持を考えていないということらしい。べつにそういうことじゃなくて、まずは自分の状態や気持を伝えたいということは、そんなに悪いことじゃないだろう。繊細が「善」「良」であると、じつに不都合が多い。もっと、ナタで彫刻するようでいいのではないか、繊細ならお互いに理解が深まるというわけでもないだろう。理解は、繊細かどうかと関係ないのだよ、想像力の問題なのだ。繊細に欠けるから相手の気持を考えてないなんて、とんでもねえ言いがかり、それこそ繊細に欠けるクソッタレだ。と、ナタ派のおれは、針先派の繊細に、針が千本集まってもナタの仕事はできないんだぞと言いたくなるわけだ。

ここで、おねえさん、熱燗一本ね、と言いたいのだが。

しかし、滝沢馬琴って男は、ほんと付き合いたくないやつだ。嫌いな「dancyu」も村上春樹も、滝沢馬琴に比べたら……って、そんな比較は無謀か。がんばれ「dancyu」、がんばれ村上春樹。って、なに書いているのか。

滝沢馬琴は、とにかく甘いものが好きだった。砂糖の消費がすごい。これって、もしかしたら、ストレス食いじゃないのだろうか。息が詰まるほど細かいひとだものなあ。

とりとめなく。

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