グルメの、うすら寒い風景。
11月26日朝、電話で生出演したRKB毎日放送ラジオの「今週のメインテーマ あっぱれ!おもしろ人間列伝」だが、のっけに司会者がふってきたのはミシュランの話だった。
大衆食堂を語るときに、そんなものはどうでもよいことなので、まさか「ミシュラン」がイキナリ出てくるとは思っていなかった。おれは、面くらった。
司会者としては、マスコミ大騒ぎのタイムリーなキーワードとして、また大衆食堂がテーマなので、ミシュランがなんだクソクラエという感じで、入りたかったのだろう。おれは、なんとなくアイマイな日本人の笑いのうちに、そこをテキトウに通過した。
で、そのあと、最初の話題は、おれがいつからナゼ「大衆食堂の詩人」を名乗るようになったかということだった。
おれに「大衆食堂の詩人」という符号をつけたのは、南陀楼綾繁さんで、2003年の春のことだ。すでに「ザ大衆食」のサイトに紹介済みだが、南陀楼さんが「この人を見よ! 大衆食堂の詩人・遠藤哲夫」とやったのが始まりだ。……クリック地獄
ついでにいえば、←左サイドバーの内澤旬子画伯の、おれを犬に擬獣化した姿に「アステア・エンテツ犬」を命名したのも内澤さんのムコ殿である南陀楼さんなのだ。彼は有能な編集者であるから、文章に見出しをつけるように、人間にも見出しをつけるのが得意なのだろう。
とにかく、この符号のおかげで、おれは、ともすると「大衆食堂の達人」だとか、それに類する符号をつけられるのを、うまく逃れることができた。今回の「雲のうえ」5号でも、おれを紹介するのに「大衆食堂の詩人」をつかってくれた。
おれが、その符号にふさわしいかどうかは知らないが、いいじゃないの自称じゃなくて南陀楼さんがつけてくれたのだからと開き直っている。あるいは「大衆食堂のウンコ」でも「大衆食堂のチンコ」でもいいのだが、とにかく、おれは「評論家」のつもりはない。もちろん「研究者」でもない。「達人」でも「鉄人」でも「重鎮」でも「第一人者」でもない。そういう事大主義は、めざしていないし、嫌いだ。ただの大衆食が好きなだけの飲兵衛のペエペエ、単なるフリーライターなのだが、それにしてもオソマツだ、ってえことで、もだえる詩人として、この符号は割りと気に入っている。
気に入っているワケは、まだあって、大衆食堂では、たいがいのフツウの客は、みな詩人だろうと思う。おれは、その一人だと思うし、そうありたい。
しかし、そうではない人たちもいる。人より勝った人間として上に立ちたい。それはまあよいとして、その上に立つ勝りかたが、なんともいじましいというか寒々しい。
「下町グルメ」だの「昭和グルメ」だのと、大衆食堂を食べ歩いては、自慢そうに食べた店の数や名前や写真をあげつらね、あそこはどうだここはこうだと書く。ただメモとして書くならよいだろう。ところが、書くことが、食文化の守護神のようである。犬や猫のマーキング行為のようである。ナワバリを主張するような態度である。いや、ほんとに、ある食堂を、初めて自分のブログで取り上げたことを、まるで手柄のように書いている。また、そういうひとを「重鎮」といってもてはやすとりまきもいる。地球上の難攻不落の山を制覇したような大げさ。
こういうことをブログという、誰でも見られるなかでやっている。恥ずかしくないのかと思うが、もしかするとおれの「恥」の基準のほうが間違っているのかと思ってしまうほど、堂々とはしゃいでいる。もう「詩」もなにもあったものではない。その内容のない、うすら寒さ。
グルメや食べ歩きというのは、もっと自身を豊かにするためではないのか。自分を耕すためではないのか。自慢したり偉そうにするためではないだろう。大衆的な飲食にあっては、とくにそうであるはずだ。
食べることを、ひとや文化の優劣をつけることに利用する。うすら寒い景色だ。自分の優越感のために、飲食をやりたいなら、大衆的な飲食ではなく、世界中のミシュランの星を食べ歩くことでもしているべきだろう。それならば、どこそこへ行った、あそこを知っているということも自慢になる。それでも、自慢になったとしても、コンビニ弁当を食べているような他を見下してよいということにはならないし、ミシュランの店だって、特定のひとのナワバリではないのだ。
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