「アラバマのグリッツ」にカレーライスの歴史を考える。
たいがいの本当(真実)は、ごみくずにまみれたようにある。ごみくずをかきわけながらさがすものだ。いっぽう、偽や嘘は、人びとがすぐとびつきやすいように、わかりやすく本当らしさを強調する。たとえばメッキの銀や金。それは、詐欺師の手口であり、「振り込め詐欺」などは、どうしてこんなことでひとは簡単にだまされるのかと、ついつい被害者を腹立たしく思うほど、単純な構造だ。そのわかりやすさに、ひとはだまされる。その意味で、「わかりやすい」ことを鵜呑みにするのは、間違いをおかすリスクをともなっている。そのうえ「たのしい」ときたならば、危険このうえない。たいがいの大衆的なテレビ番組や本や雑誌の記事は、「わかりやすく」「たのしく」だ。
カレーライスの歴史をはじめ、日本で書かれた料理の歴史の多くは、そのような詐欺師の手口に似ている。そもそも「料理とは」や「料理の歴史とは」を考えさせない。そんなことを考えてもらっては、その手口が成り立たなくなる。「料理とは」や「料理の歴史とは」といったゴミをとりのぞき、「わかりやすい」「たのしい」内容で、最初からインド元祖イギリス経由で伝来、軍隊と料理書から広がったという結論になっている。ニセモノの宝石を見せて、これがホンモノですと売りつける手口のように、ほかに考える材料をあたえない。そのテの本を読んでも、「料理とは」や「料理の歴史とは」について理解は深まらないまま、これが本当のダイヤモンドですといわれ、またそう思い込んでしまう、わかりすさがある。
だけど、カレーライスの歴史だけが単独で、料理や料理の歴史からはずれて存在しているのだろうか。そこんところはどうなのだ、えっどうなんだ、と椎名誠調でいいたくなる。
料理は、どう獲得されるのか、どう獲得されてきたのかの歴史とカレーライスの歴史は無関係ではないだろう。
ひとつ、料理は言葉より以前から存在した。もちろん本ができる以前からだ。
ひとつ、料理は食べたら消える、カタチを残さない。
ひとつ、料理は、ある味覚を得るための技術である。
ひとつ、料理は生活(生きる)のための技術である。
ひとつ、料理の普及とは、その技術の「習慣化」である。
などなどについて、こういう料理の歴史をどう考えるべきかは、拙著『汁かけめし快食學』に書いた。本などなくても、軍隊なんかなくても料理はつくられ、普及するものは普及した。そうして人間は新しい料理と味覚を獲得して生きてきた。カレーライスを含め、たいがいの料理の歴史は、技術レベルのことではなく、風俗レベルそれも出版風俗レベルのことで混乱している。それは、「料理とは」を考えてないからだ。さらにいえば、「料理」という言葉が、foodフードとcookクックの両方の意味を含んでいる混乱もある。
技術としての料理によって、新しい味覚が獲得される。
さてそれで、2008/01/17「再び「旅する舌のつぶやき」」の続き。「獲得された嗜好(アクワイアード・テイスト)」その一回目は、「アラバマのグリッツ」だ。
「グリッツ」というのは、挽き割りトウモロコシのお粥のことだ。ここでは、アメリカ南部アラバマ州のそれだ。著者の管啓次郎さんは書く。
「南部にはグリッツという挽き割りトウモロコシのお粥がある。朝食は、毎朝これ。お皿によそい、バターを載せ、それが滲むように溶けてきたら、塩胡椒で味をつける。それだけのときもあれば、ソーセージかベーコンや卵を添えるときもある。」
自分で塩胡椒して味をつけるというのもオモシロイ。ラーメンにも胡椒をふったりラー油や酢をふったりすることがあるが、あれは料理を完成させる行為なのだ。というのも料理とは、ある味覚を獲得するためのものだからだ。
「365日のうち、300日は食べただろう。味? 別にいうほどのことはない。グリッツの味だ。そしてそれには慣れることができる。」
「はじめて口にしたとき、失望に近い重みが胸をみたした。でも毎日食べていると、ある日、離陸に似た現象が起きる。舌が馴染んでくるのか、うまいと思うようになるのだ。穀物だけに、癖はない。米ほどではないが、粘りがあり、おなかに残る。塩味は、砂糖の甘みよりも、ずっと飽きない(牛乳で煮たオートミールに砂糖を入れて食べる習慣には、ぼくはさいわい無縁だ)。そのうちおかわりするようになる。そのうち、それがなければさびしくなる。」
もし、これが旅行者のことだったらどうだろう。あるいは、何軒くいたおした、なんてことを自慢するていどの舌なら。たぶん、とても食えた料理じゃない、星一つもあげられない。ということでオシマイなのではないだろうか。
こういうことは、わが国内でも、たとえば「獣(けもの)くさい」料理などではあるようだ。九州へ行ってトンコツスープのラーメン屋に入ると、あの獣くさいニオイだけでダメというひともいる。そしてモツ煮などのモツ料理は、獣くさいところを洗いおとすようにして仕上げた、獣料理なのに獣くさくないほど「うまい」といわれることが、おおいようだ。それは、はたして獣料理を獲得したことになるのだろうか? でも、少なくとも、そのようにして獣は食物になっているといえる。そのことに理解がおよばないと、いつも単純にマルとバツをつけておわる。
「アラバマ州にはきっかり1年住んだ。以後、二度と深南部を訪れていない。アメリカのほかの地方では、グリッツは明らかに南部の地方食とみなされ、人気もなく、食べようという人も少ない。アメリカ社会の全体では、南部はいまもどことなく軽蔑されている。でもぼくは、ときどきスーパーマーケットの棚で箱入りのグリッツを買って、お湯を加えて軽く煮立て、たっぷりとお皿に盛るのだった。この味を、ぼくは「獲得」していた。誰にも話したことはないが、ぼくはずっと、南部もグリッツも大好きなのだ。」
ある料理は、ある味覚をつくりだすように成り立っている。それと食べるひとの嗜好は必ずしも一致しない。そのばあい、ほかに手段がないなら、その味覚に馴染んで獲得する。そして手段があれば、馴染んだ嗜好にあわせて新しい味覚を獲得することになるだろう。前者と後者では、まるでちがう料理になることもある。そのように料理は普及する。
「国民食」といわれるほど普及した黄色いカレーライスは、後者の手段、つまりカレー粉という新しい調味料を汁かけめしの料理によって獲得した味覚だというのが『汁かけめし快食學』の主張なのだ。インドのカレー料理とはもちろんちがうし、イギリス料理の構造でもないし味覚でもない。日本の料理の方法であり味覚なのだ。だからそれを食べても、インドやイギリスを好きになることはなかった。「おふくろの味」といわれた。
そのカレーライスを土壌にして、インド風のカレーライスやイギリスあるいはヨーロッパ風といわれる、日本の個性とはちがう個性のカレーライスを「レストランの味」として獲得した。それはまだ、「普及」ということでは、ほんのここ数十年のことなのだ。
もう正月がおわりそうなことに気づき、年賀状をやめてから例年化している「エンテツ年頭消息 2008年正月号」をあわててつくり、きのうから少しずつ発送している。宛名書きに一言そえて。ぼちぼち、はて何日間かかって発送がおわるのだろうか。とにかく今月中に発送を完了せねば。いちおう「正月号」だからな。
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