「せい」なのか「おかげ」なのか。マグロステーキ。
新宿の東口は、「特殊」な思い出が多い。もっとも、「思い出」というのは、特殊なものなのかもしれないが。
新宿東口の高野の前に立って靖国通りに向かう。その突きあたり正面、細い路地がある。新宿区役所の裏にあたる通りの入り口だ。
その細い路地の入り口の両側にあるビルは、外装は少しは変わっているが、1974年当時のままだ。むかって、左側の6階、その下の5階と、そして右側のビルの5階、そこが1974年おれが30歳のときの思い出深い舞台。そのシゴトのことは、以下に書いた。
2007/06/30
1974年の暑い熱い夏
2006/09/10
いつだってテロル
「いつだってテロル」には、「んで、74年に入ると7月7日投票の参議院選挙の政権党候補のキャンペーンに関わっていた。んで、選挙投票日の3か月前には、新宿高野の前の通りを靖国通りに出て突き当たったところにあったビルの(歌舞伎町の入口で、いまでもある)、候補者の事務所へ出向になって」と書いた。とにかく、その「候補者の事務所」というのが、ここで、その6階に、おれの机があった。おれは、けっこうな「幹部」で、専用の黒塗りの高級車をあてがわれ、そのクルマは靖国通りの地下駐車場にあり、いつでもそれを運転する「部下」もいた。
きょう、また、そのビルの前に立った。あれが、いい思い出ということではないし、懐かしい思い出ということではないが、そこに立つと、いろいろなこと思い出す。選挙という平和的な政治闘争が先鋭化される舞台では、戦場は知らないが、なにか人生が凝縮された戦場のような出来事が続く。
おれは30歳、海千山千の政治の世界で生きてきた他の幹部に比べたらガキのような若さだった。そして、候補者の活動の、最も底の部分を支える力しごとをする連中は、おれの指揮下にあって、おれより若い連中が9割方を占めていた。彼らは、みな「日本」を考えていた。おれは、そこへ、「仕事」で、カネの稼ぎのために行った。ま、おれの「プランナー稼業」としては、めずらしいことではない。
おれの直接の「右腕」だった牛ちゃん。おれは苦手で、よく遅れた朝礼を、うまくまとめてくれていた。彼がいなかったら、おれはうまく仕事ができていたかどうかわからない。ある有名ファッションメーカーからの出向で、将来のファション関係の輸出入に志を持っていた。実際、そのあと、しばらくしてカナダへ渡った。
ときどき思い出して涙が出ちゃうのは、三重県出身の○○くん。彼は、おれのクルマの運転をよくやってくれた。彼は、いつもおれのそばにいて、夜中12時すぎに候補者宅へ行かなくてはならないときでも、すぐ動いてくれた。彼と、何度も通った靖国通りの地下駐車場の入り口は、いまも同じ姿をしている。彼は、その選挙が終わって、2ヵ月後に、盲腸炎の手遅れが元で亡くなった。24歳だったかな。
おれの指揮下にあった遊説隊の大部分を占める「アナウンス嬢」をたばねる○○さんは、いわゆる東京下町の出身で、やはり確か24歳ぐらいだった。聡明にして美人、といってよいだろう。もちろん声もよい。アナウンス嬢の若い女たちをたばねるのは難しい。そのうえ、全国くまなく動く遊説カーに合わせ、アナウンス嬢の乗車や交代を決めるおれは、女の「生理」など理解してなかった。彼女とは、一度そのことで大衝突して、激しく泣かれたことがあった。ああいう「上司」のもとで働く女は恵まれている、なかなか有難いことだと思った。
そのビルの前に立つと、いろいろなことが思い出される。そして、きょうもまた、その前で、いろいろなことを思い出した。
そのビルのあいだの通りを入って、すぐ最初の小路を右、つまり新宿区役所のほうへまがったところに、小さなスナックがあった。事務所から一分だ。忙しいときは、そこでよく食事をした。「マグロステーキ」を初めて食べたのは、そこだった。マグロの角切りをキャベツなど野菜と鉄板焼きしたものだ。気に入ってよく食べた。そこのママさんも、よかったな。
「あなたのおかげ」というべきを、「あなたのせい」と言ってしまうのは、何気なくあることだと思う。だけど、「おかげ」と「せい」では、ずいぶん違う。そこにドラマが生まれることもある。しかし、いったい「おかげ」なのか「せい」なのか、判別つきにくい実態というのも、けっこうある。
ある出来事、あるいは誰かと、出合った「せい」で、いまの自分があるのか、「おかげ」で、いまの自分があるのか、判断はつきにくい。
そんな大悪魔作戦の、新宿でした。
鳥園の昼下がり、男たちの酒飲む姿が、よかった。
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