« 「明大応援リーダー部」解散すればすむ問題なのか。 | トップページ | 東中野で泥酔、土産を駅でばらまく。 »

2008/01/26

味覚主体の、耐えられない軽さ。

『存在の耐えられない軽さ』の新訳が出るらしい(もう出ているのか?)ので、このようなタイトルを思いついた。おれは、このブログでもよく「存在」という言葉をつかうが、好きなのだな。

そもそもイチオウ1962年に哲学科にはいった当時は、マルクスとサルトルに通じたような顔をして、「存在」を、知ったようなことを言いながら酒のつまみにするのが哲学科的交際だった。もちろん元気のよい●●学会青年部も愛●党青年行動隊みたいなのも、よだれたらしながら川口あたりの当時の「トルコ」の話が好きなやつもいたが、イチオウ、そういうことだった。ホッピーは、ジョッキに焼酎とホッピーを割ったものが入っているだけだった。ジョッキも冷えていなかったように思う。なんといっても、高粱焼酎のパイカルが安く酔えた。

そして、ニーチェなども読むうちに、小学生のときから、子供の無邪気さに欠けると教師にいわれつづけてきたおれには、なんかニーチェ風な気分があるなあ(哲学や思想というほどのものじゃなくて気分ね)と気がついた。そして、さらに、「存在」という言葉が、おれの肉体のなかで、ある位置を占めるようになった。らしい。もう、マルクスもサルトルもニーチェもなにも覚えていないが、「存在」という言葉だけは残った。

強固にみえる「カレーライス伝来説」の外堀を埋めるような指摘を一つしておくと、そこには「味覚主体」が不在か、じつに軽い存在でしかないことだ。その軽い存在を、おれは『汁かけめし快食學』で「デクノボウ」という、やや屈折した言葉をつかって表現した。

「味覚主体」というのは、「労働主体」「消費主体」といわれたりする「生活主体」の、料理に関係する機能に限定した表現として、おれはいまつかっていると理解してもらってよいだろ。

料理は、味覚主体がつくるか食べるときにしか、料理として存在しない。(ほらまた、「存在」だ)。できあがったときから、刻々と存在が変化し、食べたら消える存在。(ほら、またまた「存在」だ)それは一緒にいるときしか存在が確認しえないような不確かな存在の女のようでもある。(と、またまた「存在」だ)

料理のできたてと、時間をおいたあとでは、ともするとカタチも変化するが味が変化することは、ほとんどのひと(味覚主体)が経験ずみのはずだ。

あとは、『汁かけめし快食學』314ページ、「デクノボウの台所」から引用。

 台所でくりかえし再現されないかぎり、料理は伝わってひろがったことにならない。料理はつくられなければ存在しないし、食べればなくなってしまうからだ。料理の普及とは、台所での再生であり生成のくりかえしの連続でありひろがりである。
 そしてカレーライスを語るとき、忘れてはならない人間といえば、そのくりかえしの現場のおふくろであろう。おふくろは、ながいあいだ台所の全知全能だった。おふくろは台所を意味し、おふくろの味は台所の味を意味した。
 おふくろをぬきに、どんな食品も料理も普及しなかった。どんなに有名な料理人が本に書いたところで、軍隊が何万人で押しかけても、おふくろ、つまり台所でダメなものはダメであり、そこがどうであるかだった。

と、まあ、味覚主体という言葉はつかってないが、このように書いている。続いて。

 だが、ほとんどのカレーライスの歴史では、黄色いカレーライスをつくったおふくろつまり日本庶民の台所は、いつも感覚や意思や精神のないデクノボウあつかいである。西洋料理である軍隊の料理である男の料理であるカレーライスを、まねし、手ぬきし、自堕落なものにしたデクノボウ。
 デクノボウだろうが、感覚や意思や精神がある。それがデクノボウなりに、料理にどうはたらいてきたかが料理の歴史ではないのか。

と、まあ、そういうことなのだけど、文章なんぞを書いてカネもらうようになった「エリート意識」は、デクノボウなんぞは歴史にならないと思っている。というか、はやいはなし、そんな存在の軽いものたちのことなんぞを書いても売れない。本を買う人たちも、自分とおなじデクノボウの話より、一歩も二歩も「上」のことを知りたい。そのことによって、自分はデクノボウとはちがう一歩も二歩も「上」の人間であると思いたい。とかとか、いろいろな事情があるようだ。

たとえば、かの有名なブリア-サヴァランさんの『美味礼讃』などとくらべてもすぐわかることなのだが、日本のグルメ本や食通本あるいは料理史のたぐいというのは、料理を対象にしたオハナシだけが熱心なのだ。料理を、モノとしてとらえているのだな。だからモノとしての料理とモノづくりとしての料理への関心は高いようだが、味覚主体の存在の軽いこと、はなはだしい。

そこで、当代の日本においては、わが味覚のことを語るとなると、大げさな、あるいは威嚇的な形容によって、そこをとりつくろうとする。

たとえばの話しだが。

安い箱入りの酒を飲む。イチオウ純米酒である。常温でよい。

これを呑むときに、塩をなめなめ呑む。それから、羊羹でも砂糖でもよいが、味の素かフリーズドライ製法による粉末だしの素の昆布あたりでもよい、それを、なめなめ呑む。また、レモンの薄切りの一片をかじってから呑む。また、唐辛子、赤いやつでいいが、あれをかじってから呑む。これがイチバン面倒なのだが、苦味渋味というものが、簡単な調味料としてはない。そこで、ま、サンマの内臓でよいだろう、サンマを食べるときに、その内臓を口に含んで食べたのち、おなじ酒を呑んでみる。塩は、元日本専売公社で現JTの「食塩」をつかったり、朝青龍な味のモンゴル岩塩のカタマリをつかったりしてみるのもよいかもしれない。

なにもそこまでしなくてもよいのだが、おれは、ただ朝酒を呑んで朝から酔っているわけじゃねえぜ、仕方ない、これもわが職業で呑んでいるのだと、言ってみたりしたいわけだね。するとね、それも簡単な、わが味覚主体の存在の確認になるというわけだ。ともすると、少々食べあるいた飲み歩いたぐらいで、大げさな形容や装飾でテキトウなことを書いているグルメ文章の内容のインチクくさいところが、ピンとわかるようになるかもしれない。それは、おれのオソマツな貧乏人ならではの「体験主義的方法」の一端なのだ。

ある味覚を得るのが料理だとしたら、こういう行いも料理の一歩だと思う。なかなかオモシロイ。こんなことでも、けっこうな発見がある。

ただいま午前1時。酔っているにしては、今夜は、ちょっとイマイチだな。酒が足りなかったか。

| |

« 「明大応援リーダー部」解散すればすむ問題なのか。 | トップページ | 東中野で泥酔、土産を駅でばらまく。 »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。