再び「旅する舌のつぶやき」。
きのうのエントリー、管啓次郎さんの連載『旅する舌のつぶやき』の「移住者が舌を学ぶとき」が何度読んでもおもしろい。ほかの号も読みたくなり、バックナンバーがないか狭い部屋の少ない資料箱を探した。
「移住者が舌を学ぶとき」の掲載は、2001年12月号だが、この雑誌はこれで「休刊」になっている。探すと、連載1回目の7月号から最終回6回目の12月号までのうち、8月号をのぞいて見つかった。
1、アラバマのグリッツ
3、トウモロコシと小麦粉のあいだ
4、唐辛子ビールで、乾杯!
5、ハワイ、味覚のアジアにむかって
6、移住者が舌を学ぶとき
というぐあいだ。みな、とてもおもしろい。食べることや料理を作り賞味する楽しみがひろがる。こういうふうに食べることや料理を語るひとに、本でも雑誌でも出会ったことがない。コーフンしている。
この雑誌が「休刊」になり、そのあとがないのも、このまま埋もれさせるのも、モッタイナイ。これを生かす方法を考えている。とりあえず、なるべく詳しく紹介しよう。
食べ物の話はたくさんあるが、あそこで、こういうものを食べた、あそこには、こういう料理がある、こんな材料でこんなふうにつくって、こんな味がする……、だいたいそういうたぐいのことがほとんどだ。その料理の「存在」と「関係」に関する考察が共通して欠けている。
その結果そうならざるを得ないと思うのだが、近頃はとくに、どちらかというと「文学的」な表現にこりすぎ、言葉あそびにすぎないような感じすらある。対象にせまってない。仔細な表現の多いこと。おおげさな表現の多いこと。もったいぶった表現の多いこと。気どった表現の多いこと。自分が「達人」「通」であるかのような表現の多いこと。そして内容が希薄なこと。
なるほど文章は上手なのかも知れないが、食べ物や料理は、書くひとの「原稿用紙」や「キーボード」の中のことになっている。外国のことであっても、本や雑誌のなかのことで終わっている。どこまでいっても、そうなのだ。いったい「世間」や「人びと」はどうなったの、あんたはナニモノ、と問いたくなる。
読者も、内容より「情報」ということになっているのだから仕方ないのかもしれない。それが売れる有名になる道なのかもしれない。
いったい、こういうことに馴れてしまってよいものだろうかと思う。自己の「存在」や「関係」にすら関心がないかのようだ。情報を中心に群れていればアンシン、同好のB級と群れていればアンシンという動物。気色の悪い風景。
ところで、1回目の「アラバマのグリッツ」だ。
「「獲得された嗜好(アクワイアード・テイスト)」という言葉がある。はじめは奇異で馴染めない味だったものに、少しずつ親しんで、やがてそれが大好きになる。そんな経過が感じられる、おもしろい表現だ。」と書き出す。
ワレワレの根源、ワレワレの関係性は、そのように存在する。奇異だから、嫌いだから、馴染まないからと避けるのではなく、少しずつ親しむ。「獲得された嗜好」で生きてきた人間だ、そういう人間だからこそ、摩擦や混乱や紆余曲折を経て、大好きになるということがある。
「圧倒的な多様性」こそ食べ物であり人間なのだ。この単純な「真実」がわかっていれば、食べ物やひとを単純に採点し切り捨てることはできないはずだ。マズイものマズイことを、単純に切り捨てることは、できないはずだ。とりわけ「B級」といわれる「大衆食」で考えなくてはいけないのは、そのことだが、「B級」のひとほど偉くなりたがるし、偉そうにしたがるものだからなあ。
だけど、実際に、あまりにもマズイがゆえに食えない料理もある。それはまた、別の問題。どのみち、誰かが偉そうにしていれば片づくことではない。
おっと、話がズレた。続いて、こう書かれている。
「ヒトはアフリカ大陸で誕生し、惑星中に移住して、土地ごとの生活をつくってきた。地上では、あらゆるものが食べられている、動物、植物、菌類、鉱物。毒でさえなければ(いや微弱なものなら毒であっても)、われら悪食のサルはすべてを口にし、よろこび、飽くことを知らない。その食物の圧倒的な多様性を織りなしたのが、このアクワイアード・テイストの連鎖だったことは、想像するだけで楽しい。」
菅さんは、ときどき、食についてウンチクを傾ける人たちが使う、常識的な、あるいは惰性的なステレオタイプな言葉を鋭くえぐる。「獲得された嗜好」の連鎖について。
「言いふるされた言葉だが、人はよく「はじめてナマコを食べた人は勇気があったね」などと語りあっては、感嘆し、何かに安心する。ナマコはホヤでも、クラゲでもいい。しかしこの言い方には意味がない。ヒトの食性は、明らかに言語よりも古いからだ。」
「ともあれ、こうして拡大した食物は、それぞれの土地で土地を形づくるあらゆる物質とのあいだに流れをうちたて、ぼくらの体は摂取されたタンパク質や脂肪やミネラルやビタミンが貯蔵されたり燃えたり処分されたりする、複雑な機械となった。「きみはきみが食べるもの」(You are what you eat)という格言は、本当に正しい。物質としての私は、それ以外ではありえない。そしてきみが旅をすればするだけ、きみの体は新たな食物によって再構成され、7年も旅がつづけば、きみは確実に新しい自分になる。」
日本人とくに大都会の住民は、この数十年のあいだに、みずから地理的移動の旅はしなくても、食材や料理のほうが旅してきて、旅したのと同じような環境におかれたといえるのではないだろうか。
和食がよいか洋食がよいかの議論より大事なことは、「確実に新しい自分になった」ことについて考え想像をめぐらしてみることではないかと思う。
とにかく、だけど、人間は「物質として」存在するだけじゃないのだ。「食は文化」といわれるし。
「人間の文化の最大の希望は、それが一世代で完全に取り替えることができるものだという点にある。この数年、自分の好物を語って「わたしにはイタリア料理のDNAがある」などと笑うべきことをいう人がよくいるが、そんなことはありえない。食は文化であり、遺伝とはまるで別の営みだ。生後まもない赤ちゃんは、世界中のどの家族に預けてもかれらの言葉と味を、完全に身につける。思春期の少年少女であろうと、成人に達してからであろうと、その気になればいつでも、われわれは言語と味覚という舌の二つの活動において、まったく新しいステージに立つことができるのだ。これにはすばらしい高揚感を覚えないだろうか。」
つまり、ワレワレは可能性に満ち溢れている。その可能性を閉塞させるような言動が、いまや満ち溢れているのだけど、この可能性に対する「すばらしい高揚感」を持ち続けたい。
「生きているかぎり、遅すぎるということはない。新しい言葉を学んでみよう、新しい何かを口にしてみよう。舌という自然が、未知の文化の透明な迷宮へ分け入ってゆくきみの、尖端となる。体の他のどの部分よりも、大きな勇気をもって。ぼくは大旅行家ではなく、グルメ(食通)でもグルマン(大食漢)でもなく、言語学者でもない。けれども誰でもそうであるように、「獲得された嗜好」について、限られた経験の中で、はっとするような覚醒を感じたことがある。それはいわば、自分の体内の、私という存在の、気象が変わった瞬間だ。そんな日々の記憶を核として、これからしばらくのあいだ、舌に小さな旅をさせてみよう。」
「生きているかぎり、遅すぎるということはない」。おおっ、おれのような老人にとっては、なんていう励ましだろう。と、その気になったりしても、大めしくえなくなったし、酒量も下痢するほど飲めないし、オンナも……、バカな中年男どもがのさばるのを見てなくてはならねえ、ってことじゃねえか。
こうして食の楽しさの扉がひらかれる。それも、どこにでもある、日常の食を食べながら。
グルメでもグルマンでもある必要はない。「「わたしにはイタリア料理のDNAがある」などと笑うべきことをいう」ようなひとがたくさんいて、競い合うように、そういうデタラメをいうのだけど、いまの日本では、グルメだのグルマンだのという、「私は●●好き」なんていう意識をもつことは、自らの可能性に対してマイナスに働くだろう。
自由な舌を自由に保つことだ。
気どるな、力強くめしをくえ!ということだ。そうすれば、舌が導いてくれるだろう。
チトやることがあるので、いまは、ここまで。「引用」には誤字脱字があるかもしれないので、あとでよく見て訂正しておきます。
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