「いのち=身体」の記号化とグルメの誕生。
時間があまりないし、思いついたままを忘れないようにメモ。未完。
2008/02/22「料理は味覚を失ったのか?「いのちをいただく」お粗末。」に書いた「いのちをいただく」なんていう言い方のことだ。なぜ、こんなことになったか、不思議なので考えている。
たしか、ここ10年ぐらいのうちだが、ラジオを聴いているときに、「いのちの大切さ」について語っているタレントがいた。彼の子供が5歳ぐらいだったと思う。その子供に、自分はどうやって「いのちの大切さ」を教えているかということだったと記憶する。
それは、虫や昆虫などを好きなように殺させることだった。いや、なにもワザワザ捕獲してきて、「殺せ」と子供に与えているのではない。虫や昆虫がいる庭のある家に住んでいる。子供が好きなように虫や昆虫を殺している、それを見て「いのちが大切だから殺してはいけない」というようなことはいわない。なぜなら、自分は子供のころに虫や昆虫を殺す遊びをしながら、「いのちの大切さ」について知ったからだ。というような話だった。
つまり彼は、いまのひとたちは子供のころ遊びで虫や昆虫を殺すような経験をしてない、だから「いのちの大切さ」を知らない、だから簡単にひとを殺すのである。という考えを持っているようだった。
それを聞いて、おれは、なんだか不気味な違和感をもった。
それより、もう何年か前、1990年ごろ、おれはあるプロジェクトの関係で、農業法人組織をつくるプランをたて実現に向けて動いていた。その農業法人の名前に、「いのちの産業」という名前をつけた。
ふりかえってみると、「いのち」という言葉が、やや神秘的に、そしてやや生身の肉体から離れた記号として使われだしたのは、そのころからだったように思う。大雑把な言い方をすれば、80年代を通して、「いのち」という言葉が、なにか特別な響きを持った言葉として使われるようになった。
いつから殺人事件が起きると、「いのちの大切さ」を知らないことが原因とみなされるようになったのだろうか。それは、たぶん、「おたく」といわれた宮崎某の事件や、サカキバラの事件あたりからではないかと思う。たぶん、その犯罪が、その動機が、あまりにも世俗的な常識からみて理解をこえていたがゆえに、「いのちの大切さ」を知らないからだと決めつけられたのではないか。
まだ、おかしなことがあった。なぜか、人が死んだり、ガンになったりすると、「いのち」やその大切さに気づき、そうでもないと、いのちはまるで日常的に認識されてないかのようなバカ騒ぎが、とくに有名人がガンになったり死んだりすると繰り広げられた。まるでガン患者や死んだものの近親者だけが「いのちの大切さ」を知っているかのように。
おれは、それを、ようするに想像力の不足だろうと思っていた。いのちを抱えた自分の生身の肉体があるのに、誰かが死んだりガンにでもならなければ「いのち」がわからないなんて、想像力の不足だよと思っていた。
しかし、どうも想像力の問題だけじゃないらしい。たしかに、とくに大都会の日常では、生身の「いのち」を認識することが困難になっているのだ。
なぜなら、消費社会のなかで、「いのち」すら記号化されてしまったからだ。それは「身体」の記号化と同時にすすんだにちがいない。
食や料理が、生活から切り離されて記号化されたように。そして80年代に誕生し今日まで続くグルメは、食と料理と「いのち」の記号化をすすめた。
いま「いのちをいただく」という言葉が、なにかしら深い意味があるようにつかわれるのは、そういうことの結果なのではないか。記号化された消費主義的な「いのち」の流れであり、それゆえイマイチ現実的なひびきがない。
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コメント
村山政権以後でしょうかね。とにかく1995年の「大衆食堂の研究」のころには「やさしい」がけっこう流行っていて、おれは、どこかの原稿を書くときに、「やさしさ」はマニュアル化できるけど、「あたかかさ」はそうはいかない、というようなことを書いた記憶があります。
近頃の「やさしい」は、そうとうキモチワルイですね。夕日三丁目を見て、「自分がやさしい気持になれた」なんて、かなり気持わるい。「いのち」もそうだけど、なんだかアタリマエのことに酔っているかんじで、酔うなら酒に酔え!といいたい。
というわけで、昨夜は、タップリ酔いました。
投稿: エンテツ | 2008/03/01 11:44
同時な『やさしい』という単語も連発されている気がします。
確か村山政権以後でしょうか?
投稿: スコッチエッグ♂ | 2008/02/29 18:08