仕事と消費と愛と幻想。
ここ数日、2007/06/07「恋と料理」への検索によるアクセスが増えている。バレンタインの関係だろうと推測される。
『昭和・平成家庭史年表』河出書房新社をひらくと、昭和33年(1958)の2月14日に、「メリーチョコレート、東京・新宿の伊勢丹でバレンタイン用チョコを初めて発売。1枚170~200円」とある。そして昭和48年(1973)の同日には「バレンタインデーのチョコレート騒ぎが過熱気味で問題となる」、昭和54年(1979)1月には「サントリー、バレンタインデー用ギフトに洋酒のミニボトルを発売」。
2008/02/11「トラブルトラブルよく壊れるなかで書評のメルマガは「東京の味」。」に書いたように、1967年発行の『東京いい店うまい店』文藝春秋、1968年の『新訂 東京の味』保育社カラーブックス、同じ保育社カラーブックスから1973年『続 東京の味』のあいだには消費主義の台頭がみてとれる。それは、この年表の昭和48年(1973)の記述とも重なる。消費主義がもたらす加熱。
この時期は、まだ台頭期で、流行に敏感な都会の若者たちを中心にした現象だったといえる。そして、あくまでもチョコレート市場のことだった。それが、若者とチョコレートをこえる風俗になったのが、昭和54年(1979)ごろ。こうして消費主義は、「愛」を、ほぼ完全に手中におさめた。
いまや消費主義は、モノからサービス、さらに、この「恋と料理」へのアクセスでもわかるように、情報の消費へと拡大した。とくに大都会では、消費主義は、もはや空気のようなものだ。「生活」と「消費」の区別すらつかなくなっている。
生活と消費の関係は混迷を深めている。マスコミ利用においてはタレント能力がありそうだが、あまりオリコウとは思えない大阪府知事は、新聞報道によれば、このように発言している。
「会見で橋下知事は「生活に直接影響するものは計上する」としながらも「一部事業が継続できないこともあり得る」と断言。「府民にも一定の迷惑を掛けるが、大改革のためには必要なプロセスだ」と理解を求めた。」
「職員へのあいさつで「大阪は破産状態」と強調。「破産会社の従業員」と認識し、行財政改革に全力を挙げるよう指示した。」
地方自治体は、消費を対象としている会社とはちがう。行政は生活を対象としている、ということが正確に認識されていないことがわかる。そこには、もっと困ったことに、税金は生活のためにつかうものだという意識はなく、行政サイドの「おれの税金」という意識が見え隠れしている。役人が「おれの予算」というのと同じだ。
自治体の収入は、職員のサービスによる売上げではない。人びとの義務として課した税収によるものであり、それは人びとの生活のためにつかわれるのが当然なのだという、ごく基本的なことすら理解していないように思える。
自治体に会社の論理を持ち込むのなら、まず人びとの生活のために何をして、その対価としての税金をどう得るかという論理でなくてはおかしい。収入は自治体の論理、支出は会社の論理というつかいわけは、いかにも無能なものが場当たり的に振り回す、ご都合主義だ。
会社は、モノやサービスを売って売上げを得る、それは会社のカネだ。ワンマン社長が、それを「おれのカネだ」といって支出を決める例はあるけど、それでもそれなりの会社経営の「公益性」のルールにしたがわなくてはならない。ましてや自治体ではないか。
だけど、そのちがいは、「生活」と「消費」の区別がつかなくなった人びとのあいだでも混乱しているようでもある。
「仕事」と「消費」が「生活」になってしまった、大都会の「消費社会」。
「消費主義とは」についても、いろいろ議論のあるところだが、とりあえず「消費が自己目的化された消費」という大まかな理解でよいだろう。
つまり、みなが買うものは買っておく、みなが行くところは行っておく、アレも持っているコレも持っている、あそこも行ったここも行った、アレも知っているコレも知っている、この本も読んだあの本も読んだ、あれも食べたことがあるこれも食べたことがある……などを目的とし、時間やカネを消費する。
宮台真司さんは、かつてブログで、「「仕事での自己実現」と「消費での自己実現」しかないという思い込みをやめよ」を掲載している(2005-03-27)。
いささか学者的な強引な単純化と、最後に「仕事での自己実現」と「消費での自己実現」がもたらす不幸の解決には、「生活世界に固執する意欲のみならず、システム全体を観察して塩梅する周到なエリートが必要になります」と、けっきょく、新しいタイプのエリートに頼らざるを得ないと説くあたりがカナシイが、仕事主義と消費主義の関係は、それなりにわかる。
「消費での自己実現」しかなくなった、華やかな消費主義のどんづまり。生活ではなくなった食、近年の食べ歩き飲み歩きブームの姿でもある。
仕事の能力と消費の能力だけで、人間や人間関係を評価する考え。仕事と消費が上手にやれること、それでよいとする考え。それはまた、自分を、仕事の能力と消費の能力だけで評価する考えでもある。それによって失われたもの……生活とそのリアリティ。仕事と消費以外の、人間関係の希薄化はよくいわれるところだ。あるいは宮台さんがいう「善意と自発性」の喪失。まだまだ失われたことがある。「愛」とかね。
消費主義にとりこまれたバレンタインデーの「愛」の行方は。
トツジョ、今日は、ここまで。
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