「宮沢賢治の詩の世界」と「大衆食堂の研究」の出会い。
一言でいえば、「こういうことがあるんだ」と、感激おどろいた。
拙著『大衆食堂の研究』は1995年に出版されて10年以上たつ。例によって、おれの本は受けが悪く売れゆきが悪いこともあって、その後、レトロブームなどにのって出た受けのよい大衆食堂の本のかげに埋もれてしまった感じだ。知る人も少ないだろう。ところが、こんなアンバイに使われている。うれしい。
「宮沢賢治の詩の世界」というブログがある。おれは不勉強なので、どなたのブログか見当がつかないのだが、かなり緻密な考証をする研究者の印象だ。もしかすると高名の方かもしれない。でも、遠慮なく書かせてもらうけど。
そのブログに、
2008年2月 8日 「公衆食堂(須田町)」について(1)
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2008/02/1_37.htm
2008年2月10日 大正期東京市の「公衆食堂」
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2008/02/post_525.htm
2008年2月14日 「公衆食堂(須田町)」について(2)
http://www.ihatov.cc/blog/archives/2008/02/2_40.htm
という3回連続のエントリーがある。
宮沢賢治の「「東京」ノート」に記されていた、「公衆食堂(須田町)」と題された作品について、その舞台となった「公衆食堂(須田町)」はどこか、気になって調べて書いている。それは詩の解釈にもかかわることなのだな。
なるほど、詩の研究は、そこまでやるのかという感じで、大変おもしろい。
そこに『大衆食堂の研究』が登場する。
おれは、タブン、控えめな人間なので、あまり自慢話はしないのだが、この『大衆食堂の研究』の調べは、かなりキチンとやっている。とくに歴史的根拠については、かなりしつこく資料にあたり、自信を持って書いている。それは、『汁かけめし快食學』も、そうなんだけど、食べれば消えてしまう食の歴史は、論理的な根拠が大事だからね。それに、ものを書く上で、誠実な調べは、基本だろうと思う。
ところが、食文化本の世界というのは、論理的な根拠など、一番いいかげんなのだ。ハッタリの文章表現で決まるのだな。気どっているだけで内容のないブンガク的食文化本が横行している。で、おれは、そういうおかしな現象をあざわらうように、確かな内容の外側を、軽薄猥雑下品でオヒョヒョな表現の衣で仕上げている。で、なんどか書いたが、自分の書棚に置くのもケガラワシイと怒って、本を送り返してきたひともいるぐらいだ。いや、ま、怒る気持もわからんではないが、チト潔癖すぎる。大衆食堂の本を読むのなら、もっと大らかなんでもありの大衆食堂に見習ってほしい。
しかし、そういうひとばかりではないのだな。しかも、このように念入りに利用されている。おれは、トウゼン、こういう方こそ、真に本を読む力がある方であると思う。
近頃は、本の作りだの表現だの細かい技巧にはしり、それもコギレイならよく、なにか書くことについてカンジンなところがおかしくなっている。ま、リアリティについて、思考理解不能に陥っているのだな。実態や現実に対してインポなのだ。実態や現実はテキトウにして、本の中のオシャベリだけ。いま「活躍」の「評論家」たちをみれば、よくわかる。
それはともかく、『大衆食堂の研究』では、大衆食堂の歴史を考えるうえで、ゼッタイはずせないだろうと思われる資料を、いくつかあげ引用している。「宮沢賢治の詩の世界」の筆者は、おどろいたことに、おそらく国会図書館でだろう、その資料の原本のコピーまで入手されている。その画像も載っている。
ものを書く上で、誠実な調べは、基本だろうと思うが、そのように誠実なシゴトをするひとは、なかなか学者研究者でも少なくなっていると思う。ほんと、おどろいた。って、感激おどろいたってこと。いいかげんな食文化本、カレーライス伝来説の歴史なんか書いている、学者研究者はツメの垢を直接たべてほしい。
食文化本なんか、ヒドイものだ。「元祖」だ「本家」だのといったハッタリ言い回しでごまかしていることが多い。言葉そのものからして、イイカゲン。でも、なぜか、こういう言葉を使うとよろこばれて信用され、おれのような書き方は信用されないんだよね。近頃は、イイカゲンが好きな連中が、本を買うんだな。
『大衆食堂の研究』を書いたころは、おれなんかまだインターネットも知らなかった。やっとパソコン通信の時代か? コツコツ図書館で調べ、根拠となりうる資料を求めて、最後にたどりついたのが、日比谷にある東京市政調査会の図書館だった。あまり利用者がいなくて閑散としているそこへ、何日も通った。ただ昔からの資料を保管してあるだけという感じで、レファレンスのサービスなどなく、山のようにある図書カードを見ながら、カンで資料を探し出さなくてはならなかった。しかも、コピーサービスもなく、資料の持ち出しもできないから、手書きで写さなくてはならない。
もちろん国会図書館へ行くことも考えたが、あそこじゃ、なにか最初に手がかりがあれば別だが、こういうふうに図書カードをかきまわすように調べられないし、第一、待たされてかなわない。これらの資料は、戦前は飲食店を管轄していた警視庁の資料からあたってみれば、何か分かるだろうと思って、手探りでたどりついたのだ。
それらが、少しはお役に立ったらしい。
おもしろいのは、「公衆食堂(須田町)」は、どこかということだ。
聚楽の前身である須田町食堂という説があるらしのだが、このブログの筆者は、それに疑問を持って調べている。そして、須田町食堂説については、「公衆食堂(須田町)」に書かれた詩の雰囲気ではない、「総体として私が感じるのは、これは現代に移し変えてみると、「大衆食堂」というよりも「ファミリーレストラン」に近い存在だったのではないか」と述べている。それを、その宮沢賢治の詩との関係からも、結論しているのだな。
であるから、その舞台は、須田町食堂ではなく、須田町周辺の公衆食堂あろうと。この論考の過程が、とてもおもしろく、そこでわが『大衆食堂の研究』も活躍なのだ。拍手、拍手、拍手。
須田町食堂に関する筆者の考えは、おれとほぼ同じだ。当ブログのどこかでも、そのことについてふれているし、下記の関連のリンクでも、少しふれている。
須田町食堂は、神谷バーやヤマニバーなど、明治の西洋料理店の廉価化が、大正期に勃興するサラリーマン中産階級に広がる流れのものだとおれは考えている。戦前の階級社会を考慮入れたら、それが大衆の日常の食事の場として「大衆食堂化」するのは戦後になってからだろう。その根拠は、ほかにもいくつかあるが、そのうち大衆食堂の本を出版する機会が、もしあったら、詳しくふれるとしよう。
聚楽の前身である須田町食堂といえば、おれの本よりはるかに売れているらしい大衆食堂の本では、大衆食堂の「元祖」ということになっているが、それはかなり、おかしいんじゃないの、疑問符。資料をちゃんと調べたの、といいたい。だいたい歴史の方法としても疑問符だよ。という感じのものだ。
いまのところ、資料を厳密に検討すれば、そういうことになるだろうと思う。宮沢賢治の詩が、さらに文学的にリアルに、それを裏付けている。素晴らしい。
ひとを見かけでしか判断しないように、本の内容を表現の上っ面でしか判断できないオリコウさんたちは、よく考えて欲しいね。おれって、見かけは悪いけど、中味はイイ男なんだよね。おれの本もおなじ。いまの消費主義の世の中、外観に誤魔化されてはいけないよ。うふふふふふ……。
でも、女には蹴られっぱなし、チョコは一個もなく、チョコなんざ欲しくはないが、同居のツマに「バレンタイン・デーなのに女から誘いがないの」とバカにされたのがグヤジイィィィィィ始末だった。上っ面の華やかさを横目に見ながら、老兵は、ふふん、酒呑みながら去り行くのみ。賢治さ~~ん。
宮沢賢治の、この詩の舞台は、「大衆食堂」の呼称が生まれようとしていた時代だ。
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