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2008/03/08

街的に百姓的に、春の声を聴け。

しかし、この春は、知り合いに異動が多い年だ。幸いかどうか、みなさん「ご栄転」のようだ。めでたいことではあるが、おれとしては懸案中の企画のほうは、どうなるかに関心がある。ま、リーマンに異動がつきものであるように、企画に頓挫はつきものではあるから、べつに悩ましいことではないが。

とにかく、なにかと、あわただしい日は、人さまのブログを読んでいただくにかぎる。

まずは、「編集集団140Bブログ」の「「本の雑誌」とエンテツさん。結局自慢 2008-03-07 (金) 」…クリック地獄

当ブログの2008/02/12「食と、暮らしのリアリティ、街のリアリティ。」で江弘毅さんの文章を引用をしている。それを、江さんが検索で発見されたらしい。「街的」ということ、やや未熟なところもある概念のように思うけど、だからこそ可能性もあるのであり、あのバブルのころからコンニチまで続く消費主義がもたらした閉塞を突き破る息づかいを感じる。

おれは「街的」という言葉を、なんとなく使っていた。江さんが使うような意味では、当ブログの2006/07/19「「地下鉄のザジ」の街的飛躍そしてパーソナルヒストリー」に引用している、「おのぞみドットコム バカと呼ばれるとさみしい! 街と店と情報誌」の「堀埜浩二さんが考えたこと ■6月の問い 街的ってなんですか? いい店ってなんですか?」で、ナルホドと思ったのだった。

江弘毅さんも堀埜浩二さんも、「編集集団140B」。もとはといえば「ミーツ・リージョナル」の関係者でもある。「編集集団140B」、もしかすると、このあいだ、キムラ嬢あんど肉姫嬢と呑んだときに話題になったグループのことだろうか。いま売れっ子の内田樹さんも発起人に名を連ねている。そういえば、キムラ嬢あんど肉姫嬢との次の呑み、やらねば。

ま、なんにせよ「街的」には可能性を感じる。

そして、もう一つの可能性といえば、「百姓的」にの、藤田さんだ。藤田さんのブログ、これはもう多くのひとに読んで欲しい。

けっきょく、この両者に共通するのは、「生きる」ということなのだな。街に生きようが、田畑に生きようが(田畑に生きても、衣食住の完全自給自足などありえず、暮らしは「都会的消費」がついてまわるし)、「生きる」主体のことなのだ。いまや消費主義がもたらした閉塞のなかで(その閉塞は「生きる」可能性を消費主義に吸いとられた結果だと思うのだが)、「いのちをいただく」なんて、「いのち」まで「いただく」ものになり、「生きる」力強さを失いつつある。

おれたちは消費の奴隷じゃねえぞ。で、一方で、こうした動きもあるのだな。「生きる」「生活」の息づかいを感じる。これは、パンクだね。ここに未来の可能性があると思う。そのように、春の声を聴きながら、酒くさい息を吐く心地よさよ。

藤田さんのブログ。これを読むと、まだぜんぶ読んでないが、藤田さんと一緒に百姓になって「生きる」時間を歩める。とかくありがちな、過度な思い入れや、観念的な理想論もなく、きわめてリアルな実態として、百姓的なのだ。これ、本にして欲しい。


藤田 敏 1967年生まれ。東京・神奈川での15年間のサラリーマン生活の後、相原農場(神奈川県藤沢市)での研修を経て06年春に故郷・愛媛県西条市で就農。

38歳からの百姓志願~実践編。…クリック地獄

これは、藤田さんが会社を辞めて神奈川県で百姓になる研修をしたのち、いよいよ百姓の土地へむかうところから始まる。藤田さん、小さなお子さんが、2人?3人?、いるのに。

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高速バスは一路、西へ。

[ 農と暮らしの日記 ] / 2006年02月09日

19:30発の高速バスが品川を出る。
春の作付や夏の果菜類の苗づくりのため、まず単身で就農の地、愛媛県西条市に向かう。このバスに乗るのも何度目か。

思った通り、感傷はない。
長く東京で仕事をしてきたが、退職してこの1年は都心に出ることも少なく、煌めくビルの灯りももはや過去の風景。

車中、明日の段取りが頭を巡る。
闇を裂き、バスは走る。

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夏の果菜類を播く。

[ 農と暮らしの日記 ] / 2006年02月18日

朝一番で、市内の斎場へ。
小中高校時代の同級生のお父さんが亡くなったという知らせを昨夜受け、喪服もなく、また所用で午前中は動けないことから、失礼は承知で告別式の前にうかがい、黒の腕章のみで喪主である友人にお悔やみを述べる。2年ほど前に、高校同窓会組織の首都圏での会合に初めて出させてもらった際にほぼ20年ぶりに会った彼。その独立独歩の生き方に、自分もそのとききっと刺戟を受けたのだと、あらためて思い返す。

午後から、就農後初の種播き。
ハウス設営と温床作りに日数がかかるため、夏の果菜類の育苗が、2月半ばからの就農では厳しいのはわかっていた。それでも、中途半端でもなんとか種から育てたいので、とりあえず第一段は市販の育苗土を使う。

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海を渡り、姫路へ。

[ 農と暮らしの日記 ] / 2006年02月28日

予報通り、終日快晴。
昨日も降っておらず、畑作業には願ってもない一日、なのだが、今日は農から離れて別の重要な用事があり、朝から姫路へ。久しぶりの瀬戸大橋の眺めも美しい。

道中、気がつけば畑ばかり見ている。
会社員時代のいつ頃からだろうか、出張の車窓も農の風景に目が留まるようになっていた。いま、「見る」から「する」立場に。自分の預かる土地の中にも、電車から見えるところがある。レールに揺られる知らない誰かの目が、そこに留まることがあるだろうか。

明日から三月。
予報はうって変わって終日の雨。

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大根、初めて不耕起で。

[ 農と暮らしの日記 ] / 2007年12月21日

今週収穫を始めた畑の大根。
藤田家族初の“不耕起”大根である。夏のトマトを片付けた畝(この写真の右端)を崩さず、そこに種を播いたもの。これまでのところ、まずまずの成育である。葉つきで1.5~1.8kgくらい。ただ、耕起した畝と明らかに違うのは、株ごとの成育のばらつきが出ていること。味の違いはよくわからない(トマトの味はしないようだ)。

藤田家族の畑は基本的に耕起する。
収穫が終わった畑(または畝ごとの単位)はトラクタで耕し、畝を立て直してから次の作付けをする。でも、いわゆる「自然農」のやり方とは違うけれど、一部の畝はそのまま崩さないで次の種を播いたり苗を植えたりすることがある。ほとんどは「場所がない」から「しょうがない、ここに播いて(植えて)おこう」という感じで。これまでに、玉葱や小松菜の後にレタス、レタスの後にキャベツや胡瓜、胡瓜のあとにエンドウ豆など。

不耕起の大根は、素直に感動。
茄子やトマトなど地上で“成る”ものならともかく、収穫する野菜そのものが地中に伸びる直播きのものは、やっぱり”サラサラにしてある”(と確信が持てる)畝に播かないと不安……というのが正直なところ。「人が耕さなくても、枯れた根や小動物たちが地中をふかふかにしてくれる」とかいうのを聞いても、見えないわけなので……。そこに、根菜の中でもとくに「裂根になるので、よく耕して、小石などは取り除いて……」と園芸の手引き書などには書いてある大根を播いたので、本当にひと安心、そして感動なのである。すべてを不耕起でされている方々には笑われると思いますが。

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不耕起とは、耕さない農法のことだ。当ブログでも、2006/03/17「誤解 自然農法と有機栽培」で、ふれている。

そして。今年。

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就農3年目に入り……。

[ 農と暮らしの日記 ] / 2008年02月11日

昨日で就農まる2年が過ぎました。
3年目、まあ、かなりこの一年で今後のことが決まるように思う。

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幼い子供たちが、まびきの手伝いをしている画像がある。

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土曜の畑に、子どもたち。

[ 農と暮らしの日記 ] / 2007年10月20日

人参のまびきに精出す土曜日の子どもたち。
8月末に播いたものが、おかげでようやくひと通りのまびきを終えた。

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さらに、左サイドバー bookmark の「38歳からの百姓志願。(研修編)」をクリック地獄してみよう。それは、このように始まる。

Apr 01, 2005
会社を辞めた翌日。
大学を卒業して15年勤めた会社を、きのう退職した。
そして、今日から百姓に向けて本腰を入れての準備が始まった。

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