「いのち」のこと読者からのメール。
だいぶ日にちが過ぎたが、読者からのメール。2008/03/02「劇場社会…過剰な自意識と自己陶酔による「いのち」とグルメ。メモ。」に対し、翌日の3月3日に、下記のような内容をいただいた。
> エンテツさま
>
> たまに寄らせていただいていますはじめは気持ち悪いと思っていたのですが(たぶん犬のイラストが気持ち悪かったんだと思います)一年前くらいから結構スキになってしまいました
> お子様を亡くされたというのを読んでなにか腑におちたのでメールをすることにしましたそのことだけではもちろんないのですが諦念とカナシミとパンクな精神がひしひし感じられ、でもちゃんと俗というかこっち側にいらっしゃるその姿勢に多いに好感をもっております
>
> さて、2008/03/02の記事についてわたしの認知ですが、『余生』という言葉がポイントなのかもと思いました大きな転換を経験した、前までの自分とは違ってしまったという意味で捉えていてその表現が楽でしっくり来るから『余生』を使うのではないかと
>
> お体を大切にどうぞたくさん飲んでたくさん書いて下さい
> (世田谷区在住(…すいません)●歳女子)
年齢は書いてあるのだが、ここでは●にする。ま、若い方だ。で、おれの返信は、遅れて9日になってしまい、その「2008/03/02の記事について」は、このように書いた。
> さて、2008/03/02の記事についてわたしの認知ですが、『余生』という言葉がポイントなのかもと思いました大きな転換を経験した、前までの自分とは違ってしまったという意味で捉えていてその表現が楽でしっくり来るから『余生』を使うのではないかと
この文章の感じからすると、もしかすると大病かなにかの体験がおありのような印象ですが、この話しは、まだとっかかりで、まだまだ続きますので、どうか、ゆっくりお考えいただければと思います。消費社会では、便利な道具を使うように便利な言葉をつかうと、思わぬことになる、オウムなどは、そういことも関係している。と、私は見ているのですが、一度にそれを書くと、長い長い「日記」になってしまうので、ただでさえ文章が長すぎると文句をいわれていますから、これでもばらばらのろのろ細かくゆっくり書いているツモリなのであります。
……と書いたまま、その後、直接には、このことにふれてない。でも、ここにも書いたように、これは1980年代以後の消費主義に関わっていることで、その意味じゃ、ちかごろ書いていることは、ほとんどが関係する。
そういうことは、たとえば、2008/02/29「「いのち=身体」の記号化とグルメの誕生。」にも書いた。
それで、きょうは、この読者のメールをここに紹介したついでに、もう一つ書いておく。このことだ。
ちかごろ話題の映画に、「いのちの食べかた」がある。この原題は「OUR DAILY BREAD」だから、言葉としては、「いのち」は関係ない。だけど、なぜ「いのち」という言葉がつかわれたのだろうか。そういうことも、関係しそうなのだ。
「いのちをいただく」というふうに使われる「いのち」、あるいは近頃の「余生感覚」は、おれ自身がプランニングで「いのちの産業」という言葉をつかった、1980年代後半ごろからの消費主義と深い関係がありそうだと、おれは考えているのだな。そして、これは、けっこうヤバイことであるとも思っている。ま、オウムは他人事ではない。そもそも、オウムとは、なんだったのか、なんなのかということが解明されてない。あれは、単なる宗教や信仰のことなのか。
ちかごろ、ある種の評判のよい「いのちの食べかた」「いのちをいただく」風のオシャレな雑誌、なんとなくエコ風とかスローフード風とかロハス風や、それを継承したような、そういうのをみると、ブキミなものを感じる。
で、まあ、そういう傾向の担い手というのを考えてみると、たいがい山の手風インテリ中間層が思い浮かび、ってえことになると中流意識の象徴でもあった「世田谷」が象徴的かな、ってことで、この読者の方に「(世田谷区在住(…すいません)」なんて書かせることになっている。
あの1980年代後半、世田谷区在住の、おれの知り合い夫妻は、おれより年上だったが、あるときから「いのち」だのなんだのについて妙なことを言い出したと思ったら、そのうち家丸ごと売り払って、どうやらそのカネを持って、オウムさんへ行ってしまった。実際そんなこともあったのだが、いまごろ、どうしているのか。
そのころ、東京・新宿区の信濃町駅近くのマンションで、中沢新一さんを囲むような会が、ときどき催されていたらしいのだが、一度おれは誘われてミーハー根性で参加したことがある。すごくたくさん集まって、すごい熱気だった。そのときも、妙なものを感じて、それに、なにしろおれはインテリは嫌いで、インテリよりヤクザ、紳士より野人が好きだから、それ1回しか行かなかったが。ブキミだった。
そういうことなど、いろいろ「いのち」に関しては思い出されるので、ま、ぼちぼち、思いついたときに書いておきたい。
とにかく、食や生活は、いつも現実的に考えるべきで、観念的になるとアブナイと思う。「栄養」という観念や、「いのち」という観念で、食や生活をみる、これは同根のアブナイことだと思う。であるから、「快食」であり、「気どるな、力強くめしをくえ」なのだ。
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