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2008/03/20

「恫喝的管理」と「芸術的管理」。

「芸術的管理」ってのが話題になってね。と、酒を呑みながら、男がいった。

おれ=なんだいそれは。
男=「よろこんでいうことをきく」管理を、そう呼んだらどうかという話です。研修で話題になったのです。
おれ=カネさえはらえば、たいがいよろこんでいうこときくだろう。
男=いや、それは、カネでつっているわけだし、カネがなくなったときの恐怖をおぼえさせるアメとムチのわけで、ある種の恫喝でもあるでしょ。これをやらなかったら、このカネは手に入らないぞという。
おれ=じゃ、カネがからまなければいいのかい。
男=いや、カネだけのことじゃないですね。無形の損得というのがありますよね。ようするに、いうことをきかないと嫌なおもいをするぞということを感じさせるのは、芸術的管理にならないのです。
おれ=そりゃまた、ずいぶん、美しい美談のような話じゃないか。
男=ね、だから、芸術的管理というのですよ。文化活動や芸術活動の分野では、よくあるでしょ。一銭の得にもならないことを、よろこんで献身的にやる。
おれ=そりゃ、宗教じゃないの。「宗教的管理」といったほうがいいんじゃないの。イベントなんかでは、よくあるだろ、カリスマみたいなのをつくりあげて、そのまわりに取り巻きを組織して。宗教ならカリスマのために働きカネまで貢じゃないか。いま、そういうセールスプロモーションだらけじゃないか、それみんな「芸術的管理」というのかい。
男=ひとつの究極の管理法ですね。
おれ=ある種の集団操作だな。でも、それは片方に恫喝的な管理があるから成り立つのだろ。恫喝的管理になれた身体か精神が、その芸術的管理とやらを同時にもとめる構図のような気がするなあ。
男=それはそうなんですよ。どのみち唯一最善の管理法なんてのはないから、いろいろ組み合わせなくてはならないし。
おれ=そりゃまあそうだけど、恫喝的管理と芸術的管理の組み合わせなんて、気持ち悪いなあ。どのみち、ロボットじゃないか。むかし「科学的管理法」ってのがあったけど、あれはどうなったの。
男=日本人にとっては、科学なんか方便ですから、あれはアイデンティティとか自律があってこそなんですよ。科学的管理法は、計数による管理ってことに矮小化され、恫喝的管理に立派にいきています。
おれ=ということは、芸術的管理というのは、非計数的管理ということだな。
男=そうでもないんですがね。というのも、管理する側には計数がありますから。管理される側に計数を意識させない、気分や精神や、ま、のりとか創造性とか、そういう満足ですよ。
おれ=なんか、それって、むかしの精神主義みたいで、ずいぶん古臭いものじゃないか。
男=いや、やはり、いまふうにオシャレなんですよ。むかしは集団がモノサシだったでしょ、いまは個人ですから。
おれ=個人というより自意識だろ。やさしい「わたくし」や美しい「わたくし」かわいそうな「わたくし」あとなんだ、ようするに「わたくし」という自意識。
男=でも、日本人のばあい、外へ出ればべつですが、国内にいるかぎりは、それなんですよ。「わたくし」が気分よいかどうか。それを拾いあげるのが「芸術的管理」だろうという。これは、こんどの研修で、そういうことが話題になったというだけですが。ひとつの「感動」の組織法というか管理法というか、そういうものとして。
おれ=それで、それが、なんかいい未来へつながるの。
男=いや、そういうことじゃなくて……

と、ぐたぐた昼酒を呑んで話しているうちに時間が過ぎたのだった。わかったようなわからんような、わからんようなわかったような話だった。だいたい「芸術」なんて言葉は、じつにあやしいものだ。

芸術って最低だな。芸術クソクラエ、感動クソクラエ。

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