なんでもない景色に、何かを見つけたいね。
ま、それで、午前2時をまわって、ひさしぶりに酔うほどに冴えわたる、酔っ払い深夜便というかんじでやりたいのだが。はたして。
去る8日の「街的に百姓的に、春の声を聴け。」に書いた江弘毅さんは、それをご覧になったらしく、9日に「エンテツさんの「街的」」を書いている。そこに、こんな文章が見られる。
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「生活」などというと汗と涙の匂いがしてきそうだが、「生活」が楽しくないところに文化は芸術はない。「生活」は「遊び」でもあるし、それにほかならない人もいっぱいいる。
酒場にいることしか能がない人のことを「酒場馬鹿」とバッキー井上は呼んだが、それは消費者ではなく生活者を指している。 だから生活者は人生の芸術家であり金メダリストである。
エンテツさんは「これは、パンクだね。」と書いているのだがまさにそう。
しかしながら消費をやめてほかに楽しいことなどあるの、という問いが聞こえてきそうだ。
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そうなのだ、そうなのだ。ついでにいえば、「生活」は、けっしてぬかみそくさいものではない。そして「文化」や「芸術」は、高尚なものでもなく、高邁なものでもなく、なんでもない日常の生活の景色の中にある。ようは、そこに何かみつけられるかどうかではないか。「生活」は、喜怒哀楽に富んでいて、必ずしも「楽しい」とは限らないと思うし、楽しくなければいけないというものではないと思うが、でも、おもしろくなければ続けていけない。そのおもしろさは、そこに何か見つけられるかどうかだろう。
たとえば、なんでもない景色の中に、こんなうたを見つけられたら、失恋も苦しいかもしれないが、「生きる」ことは、なんてのかな、いいことだと思えるようになるだろう、おもしろくなると思う。だから、みんな「うた」をつくり、「うた」をうたってきた。そうじゃないのかな。これが、「生活」のなかにある、「文化」だし「芸術」じゃないのかな。おれは、そう思うね。「食べる」「呑む」ことも、そうありたい。
銀杏BOYZ「東京」から
http://jp.youtube.com/watch?v=QhpzJw95Jno
君が泣いていた夏の日の午後も
雨にぬれて走ったコンビニの帰り道も
二人を通り過ぎたなんでもない景色が
ぼくにとってはそれこそが映画のようだよ
じつは、おれは、ここに「コンビニ」が登場していたことで、この歌詞を覚えていたのだった。うーむ、おれが若いころには、ありえない。たしかに、コンビニそれ自体は、消費の場であり、市場以外のなにものでもない。そういうふうにシステムができている。だけど、しょせん街の景色の一部に過ぎないし、人間は、それを呑み込んでこえる可能性も持っている。もちろん、消費やシステムの奴隷になる可能性も持っているのだけど。こえる可能性こそ、「文化」とか「芸術」とかいうもので、こういう「なんでもない景色」に発揮されない、とりすました会場や本のなかだけの「文化」とか「芸術」とかいうものは、なんてのかな、単なるゴミなんですよ。文学もね。
だからさ、もっと、ふだんの食事に、「生きる」輝きを見つけよう、ってことなのさ。
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