春爛漫というけれど。
四月、甘美なるせせらぎとして彼女はやってきて、五月には萌え出ずる丘のごときかぐわしさがあり、六月、彼らは固く抱き合い、二人の間には互いの瞳のまばたきの他、何ひとつ存在しなかった。
……っての。これ、どうかね。おれは、けっこう、うまいなあと思っている。季節の移り変わりを、日本人は花鳥風月のモノに頼りがちで、それはまあひとつの「美徳」なのだろうけど、そのかわり、なかなかこういう表現を創造しにくいように思う。それはまた、料理や味覚でも、旬や素材に頼りすぎたりする傾向と関係あるような気がする。
ま、それはそれとして、おれのばあい、このように四月の「甘美なるせせらぎとして」の女の記憶がない。秋から冬の枯葉舞う燗酒のなかに彼女はやってきて、春の花が咲く前に、花見酒をやることもなく、トラブルが発生するか、どうにかなっていた。不運な春よ。
ああ、四月の女って、どんなに「甘美なせせらぎ」なのだろうか、逢いたい逢ってみたい、おれはあんたの春を知らないのだ。すぐ春なんか終わってしまうじゃないか。と、モンモンとしていると、なぜか、「甘美なせせらぎ」で、新酒を思い出してしまうのだな。うーむ、あれは、まさしく「甘美なせせらぎ」だ。おお、そうだ、いよいよ新酒の季節だ、四月には蔵開きもあるぞ。なんて、これもまた、季節の移り変わりをモノに頼るカナシイ日本人のサガなのだろうか。ああっ。どのみち人生の春は、もうないのだ。新酒、呑むぞ。
じつは、引用の文は、その前後をつなげると、哀しい。失われた春の話だ。だからまた一層、この一節が、ピカッとひかる。のだが、略。
村上春樹 翻訳ライブラリー『マイ・ロスト・シティー』(スコット・フィッツジェラルド、村上春樹訳)の「哀しみの孔雀」から。
午前1時半すぎ、ロマンチックセンチメンタルな深夜の酔いどれ便でした。
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