« マイコメ=コメディ+コメそして「美味しいまちづくり」。 | トップページ | 一ノ関、八戸、盛岡、朝市から夜中泥酔まで。 »

2008/04/09

「手づくり観光」と「B級グルメ」とまちづくり。

きのうのエントリーで「美味しいまちづくり」という言葉をつかった。この動き、チョイとおもしろい。というのも、そこで活躍するのは、従来の「北海道の毛がに」といったような「土地」の高額な「名産品」ではなく、地元のひとたちの生活のなかの日常食だからだ。

2007/11/19「泥舟泥縄「観光ニッポン」は、もしかするとオモシロイか?」にも書いた「ご当地グルメ」とよばれるそれは、いわゆる「B級グルメ」といわれるが、「B級グルメ」からみても、従来の「B級グルメ本」風のひとたちが展開してきたA級的な視点と東京=中央的な視点から、ダウンサイズしたようなものともちがう。

それをどうみるかは、これから取材したりして考えたいが、2008/03/15「北区の『街よ! 元気になれ』。」に紹介した、おれの寄稿「ごく私的な手づくり観光への誘い」と、かなり関係しそうだ。

上記2007/11/19に登場する『週刊ダイヤモンド』の観光特集などから引用しながら、「観光する人びとが変わり観光が変わった」と指摘し、こんなことを書いた。

「「観光」とは、文字のとおりに解釈すれば、「光を観る」ことになる。しかし、これでは不十分のような気がする。/単なる「光」ではなく「輝き」を観たいのだ。」「よりオリジナルな輝き、生(なま)の輝きを求める「手づくり感覚」の観光の広がりだ。「街歩き」や「ちい散歩」は、そのものであろう。」

「自分の手を動かしてモノづくりを楽しむように、自分の足で歩いて輝くものを見つける。そこで必要なのは、なにかを感じる自分、なにかを見ようとする自分、なにかを好きな自分、なにかを面白がる自分、なにかにこだわる自分、あるいはボーっと歩いているだけが好きな自分だったり……。」

「そんな自分を圧倒してしまうような大きな建造物や有名ブランドや重々しい歴史などは必需でない。また画一的機械的な自由が奪われそうな過剰なサービスもいらない。生身の自分が、気軽に等身大で向き合えることなのだ。」

「観るほうだけではなく、観られるほうも、おなじだ。誰かに観光名所をつくってもらったり、なにかを頼るのではなく、まずは自らの手でなにができるか、どうありたいかなのだ。」

そういう「手づくり観光をあいだに、観るほうと観られるほうのふれあいが深まり、また再び会ってみたい関係が生まれる。こうした人びとが街にあふれる。これこそ、貴重な無形な観光資源なのだ。私は、そう思う。」

てな、こと。

そんなわけで、どういわけか、とにかく2、3日睡眠不足になるほど、アレコレあった。きょうの朝方、心配のたねだった、あと半年で死ぬハズのやつが死んでしまったメールがあって、トツゼン心配が消える。明日つかう名刺がないから印刷しようとしたら、マゼンダのインクが切れている。浦和のさくらやへ行ったら閉店になっていた。大宮のビックカメラへ。買い物すめば足は勝手に「いづみや」へ。ああ、これだよな「手づくり観光」。ポテトサラダを持ってきた、婆さん、「しょうゆがいいの、ソースがいいの」おれ「きょうは、しょうゆ」。「それじゃ、なかよくつかってね」と、となりの客の前にあった、それを、その客とおれのあいだにおく。ああ、これだよな「手づくり観光」。

景山民夫さんの『普通の生活』(角川文庫)には、「滑走路の片隅で出会ったグーニーバード」という掌編がある。ダグラスDC-3型機と、それを心から愛しているパイロットたちのことを書いている。この掌編を読むと、とくに大衆酒場や大衆食堂と、それを心から愛してきた男たちのことが重なる。

たとえば、こんなふうに書かれたところを読むと。


 そこには、一流とかメジャーとか呼ばれる世間で絶対的な価値を得ているものとは違う、別な男の価値観がある。一つの時代を制し時代的にはその職務を果たし終わりながら、今まだ空に駆け上がろうとする姿には、間違いなく価値を認めさせる権利があるだろう。
 エリートは、ボーイング747やファントムを操って、我がもの顔に空を駆けめぐっているけど、世の中にはそうじゃない飛び方もあるんだよと、教えてくれるものが、DC-3にはあるのだ。


そして、トラック運転手とかわらない労働者の一人であるようなDC-3のパイロットたちについて、こう書く。


 彼らはみな、世界の一流航空会社とは、はるかに縁遠いローカル・フライトやカーゴ・フライトの会社で働いているのだけど、この老朽機を心から愛しているのだし、その栄光(キャリア)に尊敬を払っているにちがいない。


どうせ、大衆酒場や大衆食堂へ行くのなら、そういうところを、DC-3の機体にふれるように想像したいものだ。一晩の享楽のために、ただ安いうまいツマミと酒と、「下町」だの「昭和」だの「人情」だのを、上っ面だけなでまわして、はしゃいでおわるのではなく。

そこにある、大衆酒場や大衆食堂を、DC-3の寿命以上に長いあいだ支えてきた「男の価値観」の奥行き、厚み。それは「男らしさ、女らしさ」の「男」とはちがうものだ。

「手づくり観光」にも、関わることだとおもう。そんなことを、いづみやで考えながら、呑んだ。「街的」の言葉を借りれば、大衆酒場や大衆食堂は「男の価値観」の学校だ。それは、DC-3のように、女も考えてみる価値があるものだとおもう。

ちかごろ、その学校にも、女を連れて「通」ぶるだけで、「男の価値観」には想像がおよばない、もと「ハナコサン」のようなバカ女のあつかいだけは上手そうな、ムッツリスケベな「紳士」がふえたが。

| |

« マイコメ=コメディ+コメそして「美味しいまちづくり」。 | トップページ | 一ノ関、八戸、盛岡、朝市から夜中泥酔まで。 »

コメント

やつらを笑い者に。

つぎは、勝手におれの名前をつかうやつを笑ってやる。

投稿: エンテツ | 2008/04/10 07:11

ぶははははははははははははは〜!
分かる人にしか分からない面白さ!

投稿: 吸う | 2008/04/10 02:29

この記事へのコメントは終了しました。

« マイコメ=コメディ+コメそして「美味しいまちづくり」。 | トップページ | 一ノ関、八戸、盛岡、朝市から夜中泥酔まで。 »