「安すぎた」「もっと高くてもよい」の違和感。
ちかごろ、例の農薬入りギョーザ騒動以来とくに目立つのが、「国産=安全」であり、さらに輪をかけて、それは高くてトーゼン、いままでは安すぎたという声がうるさくなった。値上げトーゼン論だ。いまや、国産品の続々の値上げと、値上げ大歓迎ムードがつくられようとしているような、ブキミをかんじる。
ま、「国産=安全」は、かなりゆずってヨシとしよう。だけど食品について、高くてトーゼン、安全・安心にはカネを払うものだということになると、とても違和感をおぼえる。それは、逆にいえば、ビンボー人は安全・安心を買えないのは仕方ない、という主張でもある。「市場原理主義」の考えでもある。いったいそういうところに、健全な食文化が成長するのだろうか。ブキミだ。なんだか、出発点というか、基本が狂っているかんじがする。
おれは、「市場原理主義」については、そんなに抵抗はない。お互いに経営力をつけるべきだとおもう。だけど、そうではなく、それが国産礼賛と翼賛的につながるとなると、チト話しはちがってくる。そもそも日本の農業は、社会主義のようにやってきたのだから、ま、中国のようなアンバイだ。そのなかで、これまで「市場原理主義」を非難してきたひとたちが、今回は、こういう主張をしている。ま、ようするに、ひとの不安や恐怖感につけこんで、目先の自分の得になるリクツを選んでいるのであって、自分の欲と計算だけだ。そんなところに、よりよい未来はない。だいたいね、中国産で儲けていたブローカーのような連中が、こんどは国産で儲けようとたくらんでいるような動きもあるじゃないか。ま、ショーバイ人は、当然そういうことなんだろうけど。それをおかしなリクツで糊塗する。
それに、こんな「危機感」のある状態は、いつまでも続かない。ホラ、吉野家だってね、元通りではないけど。そういうものなのだ。右往左往しないこと。安いやつを選ぼう。だから、寝ましょ。おお、午前2時半すぎた。
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