「がんづき」と「自己完結型地産地消」と頑迷固陋の危機感。
4月11日、岩手県一関の「蔵元レストランいちのせき」を取材したとき、「がんづき」というものを初めて食べた。「蒸しパンのようなもの」と説明されたが、ま、そうとしかいいようのないものだった。
「のようなもの」というより、料理的には「蒸しパン」になるだろう。ただ、「蒸しパン」といってしまうと、なぜか「洋風」であり、「がんづき」はあくまでも「郷土料理」だから「和」でなければならないとするなら、大いなるあららら矛盾におちいる。なので、「蒸しパンのようなもの」が正解といえば正解になるが、食べながら「和」と「洋」の境はムズカシイと思った。
頑迷固陋な「和思想」のひとは、この味覚は、小麦粉の素材な味そのもの、毛唐どものように素材の味を殺してしまうようなことはしていない、そこがちがう、ああなんと素材の素朴な美味よ、これはまさしく「和」の料理だ。というかも知れない。
だけどね、それは、あんたが知らないだけだよ、毛唐のパンにだって、塩だけでほかは混ぜてないような、素朴な小麦の味が生きているパンがあるよ。そもそも、小麦を練った料理の原初的なものは、国のちがいにあまり関係なく、小麦と塩で始まっているのではないかね。と、いってみたくなる。
「がんづき」は、どの地域で食べられる「蒸しパンのようなもの」か詳しく知らないが、いまごろ引っ越しで燃え上がっているだろう木村嬢から先日メールがあって、こんなことが書いてあった。
このあいだ三陸へ出かけた際、盛岡でよく見かける「がんづき(雁月)」という ざっくりした蒸し菓子が、伊達の国に入ると、なにかもうちょっとだけ洗練されたものになっていることに小さく驚きました。
コレ、すごくオモシロイ。木村嬢、ありがとう。こんど、一杯、おごらせてあげる。
盛岡のがんづきは知らないが、一関は岩手県だけど、もとは伊達藩で、気仙沼や塩釜などとの交流が深い。「伊達」といえば、いろいろな言い方をされるが「あかぬけて洗練されている」意味でもある。ハイカラなのだ。
たまたま一関の商店街でフラフラ入った道の駅のような店で、中年男性に話しかけたら、彼は気仙沼の人で、毎日のように、そこに納品に来ているのだった。その彼は、気仙沼は漁師が多く、後ろは山だし、海の向こうのほうのことばかりみながら生きている、だからけっこうハイカラなんですよ、その空気がこのへんまであって、ここは岩手県だけど、私らは「岩宮県」とか「宮岩県」とか呼んでいます、といった。
おれには偏見があるらしく、彼がジャズファンで、しかも仲間と演奏をやると聞いて、おどろいて彼を見直した。とても、そのようには見えない、田舎のオヤジである。だけど、一関には全国的に有名なジャズ喫茶ベイシーがあるのは、こういうひとたちがいるからかとも思った。ナニゴトも見かけからだけではワカラン。
そうそう「がんづき」だ。そうなのだ、一関のこの「がんづき」も「洗練」つまり「ハイカラ」を感じさせるものだった。そういうことであって、「和」だの「洋」だのは、もうその段になると意味をなさない。むしろ「和」や「洋」や「岩」や「宮」や、さまざまなものが入り混じり、よいとこどりで洗練されていったものだろう。そういうことがある。ようするに小さな地域を取り上げても、そのように交流交易をぬきには考えられない。
ところが、どうしても「地域自己完結型」を主張する頑迷固陋は、いま「地産地消」あたりを根城に、あいかわらずのようだ。なんともうしましょうか、ま、しかしこの人たちはウラヤマシイぐらい楽天的だ。
なかには、玄米と塩さえあれば、なーんていっているひとがいるが、その塩、どこの塩だ。なぬっ、国産だと、国産なら地産地消だと。徳川の昔は、鎖国で、かえってよい食生活と文化が育ったと? ばかいっちゃいけない、鎖国は、徳川幕府が交易の利益を独占したいために行ったので、幕府自身つまり政府は鎖国なんかしてない、交易をしているじゃないか。ま、そういうおれの知らない歴史のことは、いいや。江戸期に各藩は名産名物を競うが、それはなんのためかといえば、地域自己完結型とは逆の、他者との交易を意識してのことではなかったのか。
こんな主張がある。「そこで穫れるものを自分たちでおいしく料理する、自己完結型の食べ物づくりがこれからの地域づくりに必要である。どこにでもある食べ物、例えばカレーライス、刺身、豚カツなどを提供してもむらづくりにはならない。」
ま、そんなふうに地域づくりをウンウンするのもサミシイ話しだが。「そこで穫れるものを自分たちでおいしく料理する」ってのは、いいだろうけど、「どこにでもある食べ物、例えばカレーライス、刺身、豚カツなどを提供してもむらづくりにはならない」というのは、まちがっている。
たとえば、ラーメンは、どうだ。あるいは豚カツも、味噌カツやソースカツ丼は、どうだ。やきそばじゃ、富士宮やきそば、横手やきそば。こういうふうに冠に地名がつくものは、それなりに、その土地の味覚になっている。それで、観光客を呼ぶ力になっている。「そこで獲れるもの」が、そこの味覚とは限らない。歴史的にみても世界的にみても、味覚は、そんなふうには決まっていない。この「がんづき」にしてもだ。
この「がんづき」だって、土地によって、味覚が異なるのだ。そのことは、交流交易を否定することには、ならないはずだ。しかも、輸入の小麦を、少なからず使っていることだろう(この画像のものは、地元の小麦のみだが)。むしろ、交流交易のなかで、自分とこ「らしさ」つまりアイデンティティをみつけ、より「らしい」「おいしい」ということで、地域によって、おなじ「がんづき」だって違いが出る。
それに、そのほうが、楽しくて明るくて、いいんじゃないかねえ。そのほうがひとが来てくれるよ。楽しく明るくないと、人なんか来てくれないよ。人が来てくれたら、経済効果もあがるよ。経済効果があがらないと、生きがいも、楽しさもあったものじゃないよ。みんな交流交易のなかで生きている。
なのに、でも、なんだか、なぜだか、自ら頑迷固陋で無理のある「地域自己完結型」に陥って、危機感だけつのらせる。なにも解決しない。
頑迷固陋な危機感といえば、いまや農水省が、世界一の見本だ。経営能力のなさにおいて無能な官僚が、いや、無能なのではなく利権のために有能な脳クソにまみれた、だからこそ頑迷固陋に陥るのか、その正体を糊塗するために、いつものように危機感を煽ることだけ有能な作文、農業白書のニュースがあったが、もう書くのがめんどうになった、やめる。ほんと、チンポが萎える。経済や交易の仕組みが、まったく考慮されてない。ま、もともと自分の利権しか頭にないんだからな。これだから、コメにしても牛乳にしても、過剰と不足のあいだを極端に振れるのかも知れない。こんな官僚たちと心中したくない。心中するなら、アンタとね。
そうそう「がんづき(雁月)」の名前は、画像で、そのココロ、わかっていただけるだろうか。丸いパンを月に見立て、上に散らばっているゴマを雁に見立てると、その名前の由来らしい。「月に雁」いかにも「和風」な名前だ。でも、木村嬢が教えてくれた、下記サイトには、丸くないものもある。いろいろなのだな。ようするに「蒸しパンのようなもの」だ。
http://www.kahoku.co.jp/weekly/trend/071101_1.html
そうそう、このこと書こうと思っていたのだ。食料自給率の報道のたびに、食料自給率は「食生活の洋風化などを背景に減少傾向にある」という文言がみられ、いたるところで繰り返されている。これおかしいよ、そういう認識では正確な実態把握はできないし、有効な策が出ないだろう、やめてくんないかな。ということで、「がんづき」は「和」か「洋」かと書き出したのだが、どこかへズレてしまい忘れてしまった。毎度のこと。
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