日々の生活こそ価値や信念を生み出す源泉である
場所というメディアに特有の性質は、共に在ることを可能にし、また共に在るという地点から出発するしかない、というところにある。そこで人々は、土地を共有することで、そして土地の物語を媒介とすることで、隣人とも、まだ見知らぬ他者とも、何度でも出会いなおすことができる。そこには、唯一不変の信念や、絶対的な価値観といった類のものはいっさい存在しない。土地に刻み込まれた数々の日常生活から成る物語は、翻って私たちの日々の生活こそ価値や信念を生み出す源泉であることを、絶えず想起させるのである。
『こころのたねとして』に収録されている「過程としての、場所の力」原口剛より
原口さん、すばらしい!
拙いおれの頭で考えるに。この場合の「土地」とは、坪単価いくら、というような物理的な「土地」ではなく、地理的な土地のことだろうとおもう。であるから、狭い地域におきかえることも、地球規模におきかえることも可能なのではないかとおもう。地球の表面は、川や海で物理的には分離されているようでも、地理的には川や海を含めて地続きなのだ。海や川に国境や県境などがあることで、それはわかるだろう。そして人びとの生活は、そういう境のなかに在ると同時、そういう境をこえても、在る。「地産地消」の「地」も、そのように在る想像力がはたらけばよいのだが。
2008/05/08ぜひ読んで欲しい本です『こころのたねとして』。
画像は4月13日8時チョイすぎ、八戸漁港の朝市で撮影。タマネギやニンジンを売っているカッコイイおやじの後ろの岸壁には、イカ漁の船が何隻も着岸していた。どれも数百トン(300トンクラスといったかな?)の、あまり大きくないほうの漁船だ(勝海舟が渡米した咸臨丸は、600トンクラスだったとおもう)。この小さな漁船が船団を組んで、赤道をこえ、南半球のオーストラリアの東沖から南米沖のあいだの太平洋を、数か月かけて操業する。その間に獲れたイカは、船団についていく輸送船で、「日本」にピストン輸送される。のだそうだ。そこまでやって、そんなにしてまで、なのに、だけど、なぜか、どうしてか、日本人の「魚ばなれ」が嘆かれ、魚を食べると頭がよくなる。のだそうだ。んじゃ、日本人が「魚ばなれ」していなかったら、どういうことになっていたのか。どこがどうなってるのやら、なにがなんやら。
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