おれは無神経で繊細に欠けると、よくいわれる。うふふふふふ、それで、ずいぶんひとを怒らせてきた。しかし、おれからいわせれば、その基準というのは、まったくアイマイで、チト世間の大勢はナーバスでデリケートすぎるかんじがするので、一歩もひかず反省もないまま、コンニチにいたる。無神経で繊細に欠ける本は売れず、離反するひとも少なくなく、老人のかたくなさも強まり、さらに孤独を深めている。
そもそも「気どるな、力強くめしをくえ。」なのだ。これは、「ザ大衆食」のサイトのトップに掲げているが、もとは『大衆食堂の研究』(三一書房、1995年)の腰巻に、おれが書いたキャッチ・コピーだ。このコピーは、96年1月『ダ・ヴィンチ』2月号の「今月の腰巻き大賞」で、仲畑貴志さんの「仲畑賞」を受賞した。賞の名前を忘れたが年間のものでも、「次点」だか「補欠」ぐらいだった。選評に「ぼくのような古い世代を納得させるだけの力がある」とあった。仲畑さんは、たしか、おれより少し年上だったと思う。
そのボディ・コピーの出だしは、こうだ。
「小市民化した東京大衆をののしり、オシャレとウンチクとモノグサにまみれた食生活をたたく。「グルメ本」にはない下品さ、支離滅裂・荒唐無稽………」
「小市民化した東京大衆をののし」っている。小市民化した東京大衆とは、「豊かだと喧伝され、誰もが中流だと口にしたあの時代の嘘」に、だまされたか、のったひとたちのことだ。
「あの時代の嘘」とは、『大衆食堂の研究』が発行された1995年でも、梅雨空のように色濃く世間をおおいつくし、コンニチまで衰えを知らないかにみえた、「八〇年代的な嘘」だ。その嘘と、小市民化した東京大衆と、ナーバスでデリケートすぎるひとたちは、深い関係にある。
いかがわしいたたずまいの大衆食堂や大衆酒場に1人で入れなくなってしまった、ナーバスでデリケートすぎるひとたちは、そんな自分が「正しい」と思っている。いかがわしいたたずまいの大衆食堂や大衆酒場のほうが、無神経で繊細に欠けると思っている。それは、「八〇年代的な嘘」に、深く蝕まれた姿でもあった。
おっと、なにを書いているか、わからなくなりそうだぞ。大らかにやろう、そして、いま、とくに原油の高騰などもあって、「八〇年代的な嘘」がひっぺがされようとしているとき、「気どるな」から一歩つっこんで、「気にするな!力強くめしをくえ」と叫んでみたくなるのだ。
気にするな!
やっと、この話に入れる。最近、Webのどこかのページで見たし、本屋の雑誌の立ち読みでもパラパラ見たのだが。よーするに、職場での会話の際のタブーだ。禁断語とか、そういう話。セクハラとかパワハラとかじゃなくて。読むと、そんなことまで気にしなきゃならん職場なんて、気にするほうがオカシイだろうとおもうものが少なくない。
何かいわれて、気にするひとたちに対して、そんなことをいわれても気にするな、という話はない。まず、こういうふうに問いただしてみましょ、とか、こう言ってみましょ、とかの話もマッタクなくて、とにかく、「禁断語」をつかったやつが一方的に悪い、だからそういう言葉や言い方をしてはならない、という「指導」なのだ。
すると、あとは、とてもお行儀のよい、なめらかな、オリコウな会話が残るという寸法だ。とてもナーバスでデリケートな美しい職場の会話が出現するのである。でも、どこか、短絡しているのだなあ。そして「人間味」に欠ける。
言い方が悪かったら、その場で、すぐ反論するなり、問いただしてこそ、コミュニケーションや人間関係や信頼関係が成り立っていくものだと思っていたが。
だいたいね、毛唐(米中のことね)の、大きな身体で欲も強いやつらと交渉できないよ、それじゃ。それが、いまのニッポンの姿でしょ。
その一方で、「しネ」とか「こロす」とかレベルのことばが日常的に、近い関係や親しい関係の会話で使われたりしている。このあいだも「しネ」といわれて自殺してしまった、高校生?だったか、いた。
なんか、オカシイ。おれは、無神経で繊細に欠けるかもしれないが、「しネ」とか「こロす」とかは、口にしたことはない。「バカ」だって気にしながらいう。「クソッタレ」なら堂々という。ひとが悲しんでいたり喜んでいたりするときに、水を差すような不謹慎は、けっこう得意だ。
ナーバスでデリケートすぎる状態というのは、緊張関係がめいっぱいで、すぐ「イエスか」「ノーか」「いいか」「わるいか」の短絡した結論に陥りやすい。ヒステリックな反応になりやすい。
その状態は、食品の賞味期限や消費期限の時間単位の管理にまで、およんでいる。その成分やら栄養価や生理に関する知識は、「医者並」で、しかも消費にその知識を使うことはできるが生活に使うことはできない。もうここまでくると、その実態そのものが、コメディだ。
そういう、なんだかとてもナーバスでデリケートな状態を、普遍的に「正しい」とするような嘘、それは、1980年代の消費主義の台頭からこちらのことだとおもう。ある種の「モノあまり」や「豊かさ」という嘘の結果なのだ。
で、宮沢章夫さんの『茫然とする技術』(ちくま文庫)に収録されている「貧乏力」だ。
宮沢さんは、路上の「八〇年代には見られなかった光景」に、「「気にならない」、あるいは、「気にしない」ことによって主張する」「貧乏力」が働いているのを発見する。
その「「気にならない力=貧乏力」が、八〇年代的な嘘をひきはがす」「豊かだと喧伝され、誰もが中流だと口にしたあの時代の嘘だ」と書く。
そして、「表面的ななめらかさを笑うかのように」「なにも気にしない力が、町の風景を変える」と書く。
「経済的な破綻をニュースが声高に伝える。すべてが閉じられてゆく気配も感じる。だが、気にすることはない。気にしてもしょうがない。このままどこまでも落ちてゆけばいい。この国を救うのは、「気にならない力=貧乏力」である」
この文章の初出は、『広告批評』98年1月号だ。いまは、もっと事態が進んでいる。
おれは、「国を救う」ことには、まったく興味がないが、「気にならない力=貧乏力」だけは、あるようにおもう。無神経で繊細に欠けると、よくいわれる、それだ。
いちおう自己弁護すれば、ようするに八〇年代的な嘘を信じていないだけで、そこそこナイーブでありデリケートである。だけど、八〇年代的な嘘を信じているひとに比べたら、とてもおよばない。おれは「表面的ななめらかさを笑うかのように」存在したいのだ。
これから、ますます、このような「気にならない力=貧乏力」が、ものをいうだろう。
貧乏力といえば、このひとと料理をはずせないだろう。以前にも、紹介したことがある。
平民金子さんの「平民新聞」……クリック地獄