めしと刃物。
プリンターを使おうとしたらインクが切れていた。ファックスを使おうとしたら、調子が悪くうまく送信できない。忙しいときにかぎって、こうだ。ま、あたふたしながらも、きのうきょう、校正を片づけ原稿を書き、酒も飲んだ。
バッグダッドでは一般人を巻き込む戦闘と無差別テロが続いていた。首都という「中央」の宿命か。とかく権力機関の中枢施設より人が集まるところで惨劇はおきる。「ひとは石垣、ひとは外堀」というような「軍略」があるとすれば、そこへ向かう殺戮もある。
先週か先々週か、ある地方で東京に対する怨嗟の声を聞いた。地方で、東京という「中央」に対する怨嗟の声を聞くのは、めずらしいことではないが、なんだか「不穏な世情」を感じ、たまたまメールをした誰かに、そんなことを書いた。
東京(=中央)の連中には逆らえない。東京の連中は、こっちに犠牲を押し付けてうまいことやりやがって。東京(東京駅といったのかもしれない)に○○ダンを仕掛けてやりてえよ。若いサラリーマンらしい男の立ち話だった。東京にはない、きれいな空の下で、その空を覆うようなドロドロを感じた。
アキハバラ。仕事をしながらWebのニュースを見たとき、見出しに「派遣社員」という文字が出た。その瞬間、なぜかおれは、川俣軍司を思い出した。そして、よく新聞の活字に「ダメ」で「凶悪」な人間に貼るラベルのように、「臨時」や「作業員」あるいは「労務者」あるいは「土工」が使われた時代が、あの古き良き昭和にあったことを思い出した。おれは、20歳前半に「土方」「臨時」と呼ばれる仕事をした。「仕事は?」と聞かれると、躊躇なく「土方」「臨時」です、とこたえた。このあいだ、ある若い女と酒飲んで歩きながら、「仕事は?」と聞いたら、一瞬のとまどいのあと(恥ずかしそうに)「派遣です」とこたえた。
鮮明に覚えていると思っていたが、川俣軍司のときも、その手の見出しが躍ったような気がして、思い出そうとするが思い出せない。
「江東区森下二丁目」というタイトルで小沢信男さんは書いている。「一九八一年六月十七日の白昼、この歩道が血で染まった。幼稚園帰りの母子ら四人が刺し殺され、病院帰りの老女二人が負傷した。忽然生じた通り魔殺人事件。犯人は血まみれの包丁をかざして、これも通りすがりの主婦一人を人質に、中華料理店万来にたてこもり、包囲する警官隊と七時間余り対峙したのだ」
川俣軍司は、すし職人で、東京のグルメのあいだで有名な高橋(たかばし)のドゼウ〔伊勢喜〕の近く、あのへんは以前はドヤ街だったのだが、そこの「ベッド・ハウス一泊六〇〇円を川俣はその朝払って戸外へ出た。公衆電話で一〇円使って銀座のすし屋に就職の可否をたずねて断られた。残金一八五円。そのまま凶行に走ったのだ」
都営地下鉄線森下駅そばの交差点近く、やはりグルメのあいだで有名な馬肉料理の〔みの家〕の前に、川俣がたてこもった〔万来〕はあった。
「その万来に入ってみる。パイプ脚のテーブルが六脚、片側が狭い畳敷きの、どの町にもある安直本位の食堂だ。中華そば二八〇円、かつ丼四八〇円、スブタ八〇〇円が当店最高のお値段」
川俣軍司は、すし職人で覚醒剤中毒だった。
記憶では、当時は、それでもなおかつ、その事件の「社会的」背景を考えるような、報道をしていたように思う。今回は、なんだか「社会問題」とりわけ「派遣制度の問題」にしたくないような、報道の姿勢を感じる。ようするに、個人、アイツが悪いのよ。
それもいいだろう。だけど、コンニチの「社会」と「個人」は、どんな事情があったにせよ、それほど無関係ではない。なるほど包丁を持って台所に立つのはワタクシだ。しかし、社会的関係で入手できる材料がなくては、あるいはライフラインがなくては、一つとして料理をつくることはできない。その材料やライフラインを得るためには、働いてカネを得なくてはならない。水道電気を止められ、餓死したひともいるではないか。めしをくう(生きる)とは、そういうことなのだ。そういう面を、最初から無視してかかる姿勢は、バランスを欠いているし、なんらかのコンニチの「中央」?の意図を感じる。
それほど簡単に結論が出せることじゃないから、アレコレ考えようというのに、あらかじめ、ある方向についてはフタをする、ある結論に導こうとする。おかしい。もちろん、いきなり、「格差問題」ってのも、バランスを欠いている。
ともあれ、おれの関心は、たとえば『東京人』や『散歩の達人』といった雑誌が、こういう事件を、どう扱うかみたいと思っている。扱わない可能性は大きいが、それは片手落ちというものだろう。
こういう事件のときは、とかく「事件」を論じる、そして簡単に「戦後民主教育」に責任転嫁したりするが、デハ自分が明日から、どうすべきかと考えたときに、おれは、自分が『東京人』や『散歩の達人』のような雑誌で、この事件を扱うとしたらどうするかを考え、そのことを日々に生かしたいと思う。もちろん、その雑誌は、『クウネル』でも『天然生活』あるいは『暮らしの手帖』でもよいのであるが。それが、こういう事件が起きにくい社会に近づくために、自分が考え、できることかなと思う。それが、自分としてできる、死者への弔いだと思う。
いま引用した小沢信男さんの掌編は、『いま・むかし 東京逍遥』(晶文社、1983年)に収録された、「東京散歩三話」のなかの「江東区森下二丁目」だ。なんといえばよいのか、専門的な表現は知らないが、文学的直感なり小説的手法で、現実に迫った、すばらしい作品。
もしあの時代がよかったとしたら、こういうタイトルで、こういうことを書ける場所(メディア)があったことであり、また書ける作家がいたことだと思った。(小沢さんはご健在で、そして、まだ無差別殺人は起きているのだけど。)
いまどきの「東京逍遥」や「東京散歩」のたぐいの脳天気を思い起こしてみよう。そういう東京の驕りと、地方の怨嗟のギャップが気になる。
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