「荒っぽい料理」の楽しさ。
『汁かけめし快食學』に中島梓さんの「あらっぽいおひる」を引用している。「汁かけ飯というのはやっぱり味噌汁ぶっかけご飯にとどめをさすわけですが、そういう「あらっぽいおひる」とかって、しばらく食べてないもんな」…と、このあと続くのだが。
やきそば、なかでも、大きな鉄板の上で一度に大量につくるやきそばを見ていると、これは「荒っぽい料理」だなあと思う。「繊細」を「上」とする価値観からすると、「荒っぽい」なんていう形容は、マイナス評価を意味するかもしれないが、それは「偏見」というものだ。
荒っぽさには荒っぽさのよさがあるし、見かけは荒っぽくても、じつに細かな心配りをしているのがフツウだ。むしろ、荒っぽさと繊細の紙一重のあたりを行ったり来たりしながら作っているのではないかと思う。
とかく「どちらがよいか好きか」と二者択一にわけて、一方がよくて片方がわるいという荒っぽい評価をくだすが、料理をみていると、そんなことは観念のアヤマチだと思う。
とはいえ、荒っぽいことを荒っぽくやるひとはいる。すると、やはりチョイと出来がイマイチだなと思うことがある。そんなときほど、荒っぽさと繊細のあたりを行ったり来たりしながらが、意味があるように思う。
画像のおばさんは、見ているだけでも楽しかった。大きな荒っぽい動きのなかで、コテと菜箸のさばきが細やかというか、そしてときたまする火加減のための身体の動きなどが、そのう、ま、とにかく見ていて楽しかった。ご本人も、とても楽しそうにやっていた。早朝の寝不足と二日酔い、それに少し食べたあとだったので、食べなかったが、うまそうだった。
蕎麦打ちなどは、どうだ! という感じでご本人が役者かなんかになったようなつもりのパフォーマンスを展開することがあるから、こちらも付き合って鑑賞してやるが、やきそばのばあいは、あまり注視したことがなかった。これからは気をつけよう。
4月13日、八戸漁港の朝市で。
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