「カール・マルクスは正しかった」、そして大衆食堂のオヤジは正しい。
『ファンキービジネス』約420ページを読み終えた。激しくボッキ刺激的だった。ボッキしても誰にも相手にされない老人には、毒なぐらい刺激的だった。グッとにぎりしめて最後まで読んだ。はじけとんだ。
手にして、おわり果てるまで「あとがき」があるのに気がつかなかった。「あとがき」を読んで、笑った。
「本書との出会いは、二〇〇〇年の四月、イギリスの書店チェーン、ウォーター・ストーンのロンドン・ピカデリー店でだった。二人のハゲ男が頭突きを入れあい火花を散らすカヴァー写真に『ファンキービジネス』の文字。「これはバカっぽい!」。本書を手にしてレジに向かいながら私は、新手のお笑い本との出会いに、ほくそ笑んだ。「ふふふ・・・」」
と、訳者でありコメディ・ライターあんどプロデューサーの須田泰成さんは書いている。
でも、この本は、経営学の専門家より、須田さんのようなひとに発見され翻訳され、シアワセだったとおもう。モンティ・パイソンと一脈通じるところがある。というより、モンティ・パイソンはファンキー・ビジネスの先駆者だったのかも知れない。
さらに須田さんは書く。
「 ぁっ!間違えた!お笑いの本じゃない! 買ったばかりの本の著者略歴を見た私は叫んでしまった。コメディアンのダブルアクトだと思い込んでいた二人の著者が、現役の経済学者コンビだったからだ。おまけに版元はロンドンのファイナンシャル・タイムズ社。お堅いビジネス書だったのか? じゃ返本だ! が、しかし、さらに頁をめくってみると、次のようなフレーズが目玉に飛び込んできた。「カール・マルクスは正しかった」。ん?!」
「キー・コンセプトは、しかし、この「カール・マルクスは正しかった」という、一見するとブラック・ジョークめいた一文に凝縮されていたのだった。」
たしかに、そのとおりなのだ。
で、著者の「オレたち」は、「現在、我々が経験している革命は、マルクスが想像したよりもずっとスケールの大きいものだ」「路上のバリケードや催涙ガスの煙は見えないかもしれないが、すべての人間の心のなかで確実に進行しているのだ。もう後戻りはできない」、だから「そう、我々に必要なのは、ファンキービジネスなのだ」と主張する。
もう一人の訳者、中山ゆーじんさんは「あとがき」で書く。「そして一気に読んだ。確かにぶっ飛んでいる。妄想や思いつきとしか思えないことも書かれている。だが、読後の感想を叫ばずにはいられなかった。「この本はなんて刺激的なんだぁ~!」
まったくだぁあああああ~
「著者二人の出で立ちも異様だが、素性も異常だ。連中は何とスウェーデンの名門大学ストックホルム大学で教鞭を執っているのだ。エリートじゃん! 文化人じゃん! きっと堅気の人たちだ。そんな連中だったら、我々は気後れして、とても『ファンキービジネス』を翻訳する気がしない。ところが、である。連中はパンキッシュである。自分たちの講義や講演を「ギグ」と呼んでいる」
「連中の「フィールドワーク」は、本文中に書いてある通り、著名な経済学者からヘルズ・エンジェルスにまで至っている。二人はそうしたリサーチの中で今のファンキーな世界、そしてそれから派生する二一世紀のファンキーな世界を垣間見ているのだ。だからこそ、この本は目からウロコが落ちるような、ビジネス界に生き残るためのヒントを与え、しかもトリッキー」
「オレたち」は、「カール・マルクスは正しかった」のように、ギャグともジョークともつかぬ言い回しを、ふんだんに使い、非ファンキーな世界をあばき、ファンキーな世界をつきける。
「もしも、未来を知りたいと思うなら、他の本をあたったほうがいい。こいつは未来について語る本ではない。この本は、オレたちが今この瞬間に住んでいるファンキーな世界について書かれたものなのだ。つまり、オレたちは、すでに未来に足を踏み入れているのだ」
「オレたちの生きているこの時代の世界に広がった市場経済は、良し悪しでも善悪の問題でもないのだ。ただそのようなものとして存在しているだけである。市場経済の生む資本主義はマシーンなのだ。ただしそのマシーンにはタマシイなんてものはない。オレたちはただ、これからもそいつとうまくやっていかなければならない」
「組織の経営とは、湯水のように金を使いスター・プレイヤーをかき集めて優勝を狙うのではなく、普通の人々の才能をうまくマネジメントしながら組織の活力を高め、スゴイことを成し遂げるクリエィテイブな技術である」
おお、これは「ありふれたものをおいしく」にも通じるぞ。
たとえば、わめぞ。たとえば、やどや。たとえば、もちろん須田さんの会社やら……小さなファンキーグループは、けっこうある。もっと増えるだろう。
「ファンキーのリーダーは、秩序の発生源と同じくらいカオスの創造者である」
鶯谷、新宿歌舞伎町を世界の中心に! 東京オリンピックより「東京エロリンピック」を!
現実をみたら、とてもじゃないが、やさしくなんかしてらんない。だから、現実をみないで、やさしくあろうとする。でなければ、現実をまえに「サツイ」や「ニクシミ」あるいは「ナゲキ」「グチ」だ。
だけど、「オレたち」はいう、「現実から目をそらすのは止めよう」そして「やさしく」と。いま、イチバン難しいのは、たぶんこのことだろう。「オレたち」こそ、ほんとに、やさしい、愛に満ちている。いま、パンクやファンキーに、ほんとのやさしさや愛がやどっている。
「そして大衆食堂のオヤジは正しい」というところに話しがつながるはずだったが、長くなったのでやめる。勝手に想像してくれ。もしかすると、明日、書くかもしれないが。
「兵庫のおじさん 愛のブランデー日記 」では、2008年 06月 16日「大量殺人事件を防ぐには大衆食堂。増やさなアカン。」と言っている。「厚労省とか廃止して大衆食堂省を作る。大臣には、エンテツはんになってもらう。」…クリック地獄
おれは、愛とブランデーがあればいい。
一番下の画像は第5章の扉だけど、最初「ファックユー」とカンチガイしてしまった。それでも不思議はなかった、扉をあけてすぐは、……
ショッピングとファック。
ショッピングとファックしか、もはや残されていない。
……で、始まるのだ。
どんな小さな人生にも関係する21世紀のビジネス書だ。「ビジネス書」という概念自体が20世紀的でありファンキーではなく、破壊されなくてはならないが。
もう「右」「左」「大」「小」の時代は、とっくに終わっているのだ。。
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コメント
えっ、キモ男じゃなかったの。
ぐふふふふふ。
投稿: エンテツ | 2008/06/24 17:03
おいらジャンキー
投稿: 吸う | 2008/06/24 17:00