オレのビジネス、「ファンキービジネス」。
まもなく午前2時半だから、きのうのことだけど。いやさ、その前の夜も、酔っ払って、雨に濡れて帰ってきて、またもや雨に濡れて帰ったヨツパライ一人という有様だったのだが。
しかーし、ぜんぶ書くのはメンドウだから簡単にすると、ようするに、池袋と新宿で用をたして、トウゼン一杯はいって、最後にゴールデン街のMバーへ行ったわけだ。着いたら20時半ぐらいだったかね。Mバーは、日曜日でも営業しているのだけど、今夜は(正確には昨夜だが)須田さんの、ゆる~い貸切なのさ。
で、ここで大変なことがあった。もう、きょうはサイコー。
あっ、そりゃまあ大変といえば、チャーミングな乙女もいて、チャーミングだったけど、彼女には恋する男がいて、そのう、そうなんだケドケドということで、ま、おれには関係ないわけ。
おれは、カウンターの奥の酒瓶がならぶ棚の上段の、須田さんの作品群のなかにある、「ファンキービジネス」という文字が気になっていた。前から気になっていたけど、そうそう、そういえば、Mバーで須田さんと顔を合わせるのは、開店のとき以来なんだね。
そこで、須田さんに、アレはなに?DVDなの?と聞くと、いや私が翻訳した本ですという。棚からとってもらってパラパラ見ると、もしかするとのもしかなのだ。須田さんは、まだ何冊かあるからあげるという。うれしい。で、遠慮なく、もらってきた。
11時すぎにMバーを出た。電車のなかで、その本を見る。おおっ、まさに、これだ。北浦和に着く、とりあえず、もうちょっと見たいから、チェーン中華に入って、ビールとレバニラ炒めを頼んで読む。おおっ、これだよ。
本のタイトル=『ファンキービジネス』、著者=ヨーナス・リッデルストラレ+シェル・ノードストレム、スウェーデン人だ、訳は須田泰成と中山ゆーじん。発行、博報堂、2001年。
サブタイトルに、「ヒジョーシキ人間にカイシャを開放せよ」とある。
この本、博報堂が発行するぐらいのビジネス書なのだけど、主語が2人の著者の「オレたち」なのだ。日本語への序文は、このように書き出す。
「『ファンキービジネス』は人類のためのハウツー本だ。エグゼクティブ向けの経営ハウツー本は山ほどあるが、オレたちとしてはごくフツーの人たち向けのハウツー本を書いてみようと思ったわけだ」
そして、こんな見出しがならぶ。
「ファンキービジネスは、オレたちにパワーを与える」
「ファンキーな未来へ」
そして、こんなふうに書く。
「現在、価値観は地理的な束縛から解き放たれつつある。価値観の体系は、かつて地理的条件による制約を受けたローカルなものだった」
「今やオレたちは、異なる文化や価値観を信奉しながら、神を信じるかもしれない」
「何が正しくて何が間違っているのか? 何が善で何が悪なのか?という問いについてのお手軽な答えはない。問いかけは依然として残るものの、答えは、さらにぼんやりとしたままだ」
「人生の規制の緩和 あなたは自由から逃れることができない」
そうなのだ、おれたちは、自由とビジネスから逃れることができない。だから、だったら、なのだ。
これほど、一冊のビジネス書にコーフンしたのは、ドラッカーの『断絶の時代』いらいだ。
かつてスウェーデンの会社のPRのプランを請け負ったことがある。この会社、いまでは大きくなって、技術系のあいだでは知られ会社だが、当時は小さく予算規模も小さくて困った。でも、とても魅力ある会社で、その会社の仕事を通して、スウェーデンや北欧は、フランスやドイツ、そしてアメリカとはちがう経営の風土や哲学があると思った。
北欧に詳しいわけではないが、スウェーデンの「自由」はフランスの「自由」とはちがうかんじであった。
そういうことはいいや。きょねん秋ぐらいから考え、あれこれプランして動いてきた、その根本に関わることが、ここに書かれているようだ。もちろん、パラパラ見ただけで、チョイとおれの考えとはちがうな、というところもあるのだが、カンジンなのは「オレ」であり「ファンキー」ってことなのだ。
うーむ、コーフンして、何を書いているかわからん。
ああ、こんなにも胸の動悸が。
やどやプロジェクト、ロクデナシ計画一味、そのほか、おれとビジネスのひとたちで、この本読んでないひと、ほとんどだと思うけど、読もう。そりゃぁぁぁ、オレたち、ファンキービジネスだ。
ああ、「オレたち」。彼女とおれは、なーんてことじゃねえんだな。いや、それもいいし、うまくいけばよいだろう。がんばれよ~フジコさん。なにをがんばるのか。とにかく、「オレたち」、やろうじゃないか。地理的常識をこえて。自由に、ファンキーに。
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