むかしを振り返ってばかりの走馬灯の日もある。
きのうは、そうだった。思い出ばかり。
渋谷では、井の頭線わき恋文横丁側の路地からスタート。入ろうと思っていた店は開いていなかったから、テキトウに「オープン」な飲み屋に入り生ビールぐびぐび。飲みながらあたりの景色を見ても、ほとんど建てかわっているが、60年代の渋谷といえば、西村のパーラーなんぞで、うふふのなんやらかんやら始まり、70年代80年代を思い出し、んじゃ、ついでに歩いてみようと、恋文横丁から百軒店、東急本店前の江原恵さんと「しる一」をやったビルの横から宇田川町あたりをウロウロ。
60年代は、あまり渋谷では飲んでない。後半にときどき行った店が「玉久」ぐらいか。70年代は、センター街のバー「門」に、よく行った。こちらは、たいがい男たちと。それからパルコができてスペイン坂なんていうことになってしまった、その坂の下にあったバー、こちらはたいがい女がいるとき。建てかえてコジャレタ店になり、ガキどもがウジャウジャいるバーになってからは行かなくなって名前忘れたが、そこもよく行った。どちらも建てかわって、むかしの面影はない。ま、それではと、よく夜明けを迎えた桜ヶ丘まで歩くと、原宿と方角ちがいなので、ハチ公前の交差点からガードをくぐり明治通り、東急イン側を原宿方面へ向かう。
見つかりにくいバー祖父たちの看板がある。地下におり暗いドアーを開けると、開いたから中に入る。おおっ、もう70年代のまんまだよの薄暗い空間に、客は一人もいない。開店しているというので、長い渋い木のカウンターに座る。目の前には、古びたレコードジャケットがズラッとならんで、たしか70年代には、そのジャケットも新品同様の輝きだったと思うが、いまやカウンターや店の雰囲気にあった、渋い寂れぐあい。
びんビールからハーパーロックに飲みつないでいるあいだに、おねえさんがレコードをかける。ややカントリー調のロック、がんがん。ああ、もう、まいっちまうな。この店でのことが、つぎつぎ思い出される。まさに、走馬灯のよう。
原宿へ向かう途中も、わき道に入ったり。このあたりは、1980年代に千駄ヶ谷に住んでいたころ、よく歩いた。原宿は、かわったようで変わらない。もともとブランドショップな街なのだ。前を歩く若い女が、サンダルの調子が悪いらしく、屈んで直す、そのたびにパンツが見えるので気になる。追い越そうと思ったけど、そうもぜず何度か見てしまったが、とくにどうってことなく。神宮前交差点、キティランドの隣のシェーキーズ。ここは、たしか1号店で、できたばかりのころよく来た。最初のころは、木造の二階建ての二階で、階段をギシギシいわせてあがった記憶がある。勤め帰りらしいスーツの上着を手に持った若い男と女。女が「放尿したい」という。男が「そんな言い方するのか」女「あら知らないの、そうよ」。いまどきの原宿の女は、そうなのか。でも、いいなあ「放尿したい」、こんど使おう。でもジジイが言ったのではだめかも。
原宿ラフォーレミュージアム。着いたら階段に列ができていて、こんなに集まるイベントなのかと、おどろく。若いクリエイターたちの群れ、という感じ。入場券を整理券にかえ、列に並ぶ。会場は2百数十名といったところか、満杯。まなべさんに聞いて、そこで、コンペなのだとわかる。右サイドバー→前のエントリーのコメントにも書いたが、「若いころのCMづくりを思い出して、なんか燃えたり、いろいろ考えることが多かったり、トシを感じたり」した。
たしか、もう80年になろうという70年代だったか。よくコンペに参加した。クライアントが主催のコンペはもちろん、コンクールイベントも毎年参加した。コンペは参加しだすと、あの血の騒ぎがクセになる。うふふふ、けっこう勝率もよかったし、一時は、あけてもくれてもコンペだったね。その業界では最高権威のコンクールイベントで、おなじ年に特別賞5部門だったか、そのうち、たしか2つ、10位以内入賞1つとって一気に名をあげたこともあるね。広告PRなので、受賞そのものはクライアントだけど、名前は印刷されたりで知られるから。そのうちの一作品は、渋谷にあるクライアントの博物館で見ることができる。ま、業界内イベントだから、たいした自慢にはならないが、やっている本人にしてみれば、コンペは緊張するし楽しいし、通ればうれしい。受賞しなくても、やはり腕試しにはなるし、得がたいベンキョウになる。
ああ、あのころは、よく「勝負師」のようにやったもんだ。なんてのかな、コネとかは使わずに真正面から勝負してやろうってな、生意気もあって。だけど、けっこう体力も知力もいるから、若いときじゃないと、コンペを多くこなすことはできないね。ま、とにかく、20歳代が圧倒的に多いクリエイターたちの熱気のなかで、またまた走馬灯がグルグルまわった。
で、新宿ゴールデン街Mバーでは、隣の男が、といってもほかの客は帰って彼とおれだけになったのだが。彼は30歳チョイ前、初めてMバーに入ったということだが、新潟市の出身なのだ。で、いきなり新潟の繁華街(だった)古町の話になった。おれが知っている古町は、おれが高校生の1960年ごろ、いちばん華やかなりしころ。彼の高校は、その古町のすぐ近くで、だけどすでに衰退の色濃いころ。そして、話は、60年代70年代80年代の新宿のことになった。
フラッと一人で、ゴールデン街の初めての店に入る男だから、という言い方は偏見があるかも知れないが、それなりに初めて同士でも気持よく話しができる。サラリマーンで転勤生活の経験もあり、おれもアチコチうろうろしたから、その先々のむかしといまや、Mバーの美女の故郷の話もまざって、各県の「美女度」に話しがとんだり。だけど、とくに自分が生まれていないか子どものころの、70年代80年代というのは興味があるのだという。
なぜか、まったく知らないが残滓が、ところどころに見られる60年代や70年代が、かなり魅力的におもえるらしい。ナルホドと思いながら、聞かれるままに、ゴールデン街や歌舞伎町の60年代70年代80年代を話しているうちに、こっちの頭の中は、すっかりその時代になってしまった。またもや、走馬灯が、まわるまわる回転木馬。そしてチョイと一杯のつもりが、ビールのちバーボンロックを2杯もやってしまって、23時半になってしまったのだ。おれが若ければ、その男を連れまわし新宿の飲み屋で朝を迎えるところだった。
ゴールデン街の花園側の入り口で、いつもの婆さんが、そっとささやくようなやさしげな、つくり声で、客を引いていた。カップルの男がジロジロ見ると、態度が変わり「なにジロジロ見てんだよ、見世物じゃねえよ」と、悪態ついた。カップルはギョッとした感じで足早になる。ま、これが、つまりその、60年代であり70年代80年代90年代であり、そしてイマなのですね。
そんな日もある。
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