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2008/07/31

タイトあんどルーズな、「お盆」のころ。

たいがい自分の発した言葉で自分が窮地に追い込まれる。

「××日が締め切りですが、大丈夫ですか?」と聞かれたら、「大丈夫、だいじょうぶ、おれは締め切りを守らなかったことはありません」と、惰性でこたえてきた。

そもそも、おれのような低層の文筆労働者というのは、ほかの労働者となんらかわることなく、一定時間にこなす作業量で収入は決まるのであり、一定時間にこなす作業で、ある一定の質を維持することは、これまたほかの労働とかわることなくアタリマエでなくてはならない。

現代の情報社会あるいは知識集約産業においては、「書く」や「表現」というシゴトは、少し前までの工業社会や農業社会あるいは設備や労働力集約産業の時代において「書く」や「表現」というシゴトと、大きくちがう。

ま、あいかわらず、むかしの「銀座で飲む文士」や「銀座で飲む画家」のような、前時代的な憧憬や幻想を持っているひとは少なくないようだけど、それはソ連の崩壊を知らないで現実社会を考えているようなものだ。現実は、旋盤工のように、書き、旋盤工のように、一定の質のものを一定時間に生まなくてはならない。それがコンニチの情報社会における「書く」や「表現」なのだ。

「書く」や「表現」に関わるひとたちが、そのへんの町の労働者とちがい、なにか特別なシゴトについているかのように自己の判断を誤るのは、そのシゴトの「場」である「メディア」の持つ権力性や権威性による。

そして、権力欲や権威欲、あるいは自意識過剰や自己顕示欲の強いひとほど、そのように判断を誤りやすい。冷凍コロッケのパッケージのコピーを書いたりデザインをするひとより、新聞や雑誌に書いたりデザインをするひとのほうが「上」であり、文化的芸術的なシゴトをしているのであり、エライのだ。

と、そのようなことはけっして口には出さずに、いえいえワタシのやっていることなんぞはとケンソンしながら、冷凍コロッケのパッケージなんか残らないけど、新聞や雑誌は残るもんね、といった「優劣観」をヒソかにもっていて、自分のやっている「表現」は、そのへんのものとはちがうと思っていたりする。トウゼン、そういう「表現」のシゴトをしているワタシも、そのへんの連中とはちがうのである、と。そういう実態は、けっこうあるのですね。有名なメディアに関係していればいるほど、ひとからはチヤホヤされるし、自分をカンチガイしやすい。「人物」の本性があらわれて、オモシロイわけですよ。「上から目線」の書き物の多いこと。

えっ、と、なにを書こうというのか。

そうそう、先日あたりから、「ウチは10日から1週間夏休みになります」「あっ、そうですか、どうぞどうぞ」といった会話がふえた。「どうぞ、どうぞ」もなにもない、おれが決めるのではなく、むこうが休むのだ。「通告」である。

おなじような話しを聞くうちに、「勝手にしやがれ」という気分になる。そして、おれの前に残っているのは、タイトなスケジュールの、文筆労働なのである。それはもう、自分でも望んで受けていることなので、とっても、うれしい。

しかし、これは、いかにもタイトである。発注サイドが無理を承知で頼んでいるものもあるから、「とってもタイトだけど、やってもらえますか」といわれると、受注労働者というのはシゴトを断ってはいけないという「信念」もあって、また例の「大丈夫、だいじょうぶ、おれは締め切りを守らなかったことはありません」とこたえている、おれがいるのだ。

これを何ヵ所かに対してやっていると、どうなのかなあと思わなくはないが、べつに後悔はしていない。やりたいシゴトなのだ。半年に一度ぐらいのデイトができるかもしれないチャンスを逃すかもしれないが、下層の労働者は自由レンアイも自由にならないのかもしれない。

あ~、なにを書くのか、わからなくなった。

とにかく、スケジュールはタイトでも、ココロはルーズにデレデレ飲みながらエイヤっどっこらしょと、なんとかなるものである。か。

おととい大阪からメールがあって、きのうそのメールの主と電話で話した。話しているうちに、アチラも割りと穏やかな「標準語」ベースで話しているから、ベタな大阪弁ではないのだけど、イントネーションがやはりアチラ風なのだ。で、話しているうちに、なんとなくおれのイントネーションが、それにひきずられる。かつて一年近く大阪でシゴトをしていたから、まるで縁がないわけじゃないにしろ、数十年も前のことだし、どうも大阪のイントネーションはクセモノである。

大阪のイントネーションは、ひとをひきずりこむ力があるのではないか。きのう書いたWTOといい、交渉力のない日本の官僚や政治家は、大阪弁でやるとよいかもしれない。大阪弁を官僚と政治家の「標準語」にするのだ。そこんとこを「兵庫のおじさん」に考えてもらいたい。と思ったのだが、官僚と政治家が、大阪弁を覚えたら、ますます国民をだますのが上手になるのかもしれない、なにしろ彼らは国民をだますことしか考えていないのだから、とも思った。

ああ、きょうは昼間から、なにを書いているのか。
そうなのだ、ウチに酒がないのが、モンダイなのだ。今朝は、一滴も飲んでない。おかしいはずだ。

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2008/07/30

WTO、日本政府と報道の、あきれた無様。

これはもう、貿易拡大に賛成か反対か以前のモンダイだ。

前のエントリー、「「今日の一貫」さん、も、必読。」を書いたのは、午前1時半ごろだったと思うが、今朝は、これだ。農水省は、国内的にも無能なら、国際的な交渉力も無能である。

もともと、日本政府と与党は、「自由化促進」だから、口先で「日本の農業を守る」「地産地消」を唱えていても「本気」じゃないことは、自明のことだけど、それにしても、「8%は取りたい」の、口先だけの交渉のやる気のなさは、今回、はからずも露骨になった。それにあわせて、報道の、まったくの政府と与党の「下請け」ぶりも、あらためて、あきらかになった。

下記の記事の下、ジュネーブ25日時事は、もう「大枠合意へ前進」「4%で決着」を見越している。ところがジュネーブ29日時事は、「米・中印の対立先鋭化で一転」なのだ。報道は、状況把握すらしてない。「米・中印の対立先鋭化で一転」という書き方だが、「中印」の背景には、今回アメリカの要求に抵抗してきた「途上国」の力があるのはあきらかだ。そういう動きを、政府も報道も、どう把握していたのか。

つまりは、口先では「日本の農業を守る」「地産地消」を唱える日本政府は、ドーハまで行ってはいるが、最初から交渉をやる気はない。そして、報道は、その政府のための「露払い」をしていたのだ。

こんなことは、いまに始まったことじゃないが、いったい、「食育推進論者」や「地産地消論者」あるいは天下のノーキョーさんは、この事態を、どうみているのだろうか。

それとも「食育推進論者」や「地産地消論者」も、口先だけポーズだけで、「日本の農業」のために本気にならない政府や与党とおなじなのか。そう思われても仕方ないだろう。

これほど、政府になめられっぱなしという国民もめずらしい。そもそも「農」だの「食」だの「いのちをいただく」だのと、キレイゴトをいいながら、オシャベリに熱心なだけで、無関心であり、「本気」じゃないのだ。

今回、インドや中国、「途上国」のおかげで、「日本はコメを含む農産物市場の自由化要求を当面、先延ばしできることになったが、厳しい状況が続くことには変わりがない」。とりあえず、インドや中国、途上国に頭があがらない。みっともない話である。マスコミも無様である。えらそうな顔するんじゃないよ。

交渉力のない政府やマスコミほど、強がりをいい虚勢をはり煽る。その結果、負け戦の戦争になったりするのだ。

しかし、「コメを含む農産物市場の自由化要求を当面、先延ばしできることになった」おかげで、「食育」だの「地産地消」だのをいいながら、農業利権をしゃぶり、農業の自立的経営基盤の強化を遅らせてきた連中が、またしばらく「安泰」ということにもなるのだろう。情けないことだ。崩壊する国とは、こんなものである。


関連
ザ大衆食「食育基本法と食育問題のおべんきょう」…クリック地獄


WTO交渉が決裂=米・中印の対立先鋭化で一転-農業市場開放は先送りへ 【ジュネーブ29日時事】
http://www.jiji.com/jc/zc?k=200807/2008073000024&rel=y&g=int

21日から当地で開かれていた世界貿易機関(WTO)の新多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)をめぐる非公式閣僚会合は29日夕(日本時間30日未明)、農業、鉱工業両分野の自由化ルールを定める市場開放の大枠(モダリティー)で合意に至らず、交渉が決裂した。2001年11月に開始したドーハ・ラウンドが決裂、中断するのはこれで4回目。11月の米大統領選挙などを控え、交渉は当面、凍結される見通しだ。
 一方、日本はコメを含む農産物市場の自由化要求を当面、先延ばしできることになったが、厳しい状況が続くことには変わりがない。(2008/07/30-01:11)


WTO交渉、大枠合意へ前進=大詰め調整続く-重要品目「4%」なら日本に厳しく
7月26日1時7分配信 時事通信
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080726-00000008-jij-int

 【ジュネーブ25日時事】難航する新多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)の打開に向け、21日から当地で開かれていた世界貿易機関(WTO)非公式閣僚会合は25日夕(日本時間26日未明)、農業、鉱工業両分野の自由化ルールを定める市場開放の大枠(モダリティー)合意に向け、大きく前進した。
 日米欧など主要7カ国・地域の閣僚による会合に出席したマンデルソン欧州委員(通商担当)は記者団に対し、「前進が見られた」と指摘。「最終的な合意ではない」としながらも、大枠合意が可能との認識を示した。
 具体的な進展内容は不明だが、農産品関税の引き下げ幅を例外的に小さく抑えることができる「重要品目」の割合をめぐっては、これまで、欧州連合(EU)と米国が全品目の4%を強く主張。4%で決着した場合、「8%は取りたい」(若林正俊農林水産相)としていた日本にとって厳しく、農産物の市場開放を一段と迫られることになる。

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「今日の一貫」さん、も、必読。

千葉の農業は日本一の農業 政府はこれに習って政策立案したらいい。堂本知事は本気だ。
http://blog.goo.ne.jp/ikkan_2005/e/bb36f033d0384920a66088e1a634784b


がんばれ千葉、堂本。
ほかの、日本の農水省はオカシイとおもっているひとたち、いるはずだ。
食だの農だのグルメだのいっているひとたち、ほんと、本気に考えろ。
農水省の恫喝にのってはならない。
農水省の恫喝に手をかして稼いでいるヤツラ、たとえば「食育」論者なんか、屁をかけ笑い飛ばそう。

だいたいね、21世紀も、もう10年、1割だよ。平成生まれも成人だよ。20年。
いつまでも、むかしはよかった、昭和はよかった、じぇねえだろ。
70年代、80年代、団塊世代…いい加減にしろ。

先日、30歳だったかな?の女が、メールにこう書いてきた。
> 「懐かしさ」と「昭和ブーム」の裏に潜むものは何か?
とうぜんの、いま持つべき、疑問というか問題意識だろうと思う。


おれは、酒を飲んでいるから、よろしく頼んだよ。


当ブログ関連
2008/06/21
おれだけ割りくっている不幸せ、食と農と脳。
2008/05/31
食や農や食料自給率や食育とか語るなら「今日の一貫」さんを読んでおきたい。

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2008/07/29

「消化」と「昇華」の続き。よくぞ「民衆病院」。

2008/07/28「ベタはよくないし、「消化」も「昇華」も、ちょうどよく、いきたいが。」に関連していそうなことを以前に書いたような気がして、ブログ内を検索してみた。イザ、調べようとすると、テキトウに書きなぐっているだけだし、カテゴライズなんかあまり好きじゃないから、これまたテキトウで、なかなかそれらしいのが見つからない。

2008/05/24「水族館劇場、白骨島スペクタクルに驚愕。」に、関係なきにしもあらず、という感じのことを書いているので、忘れないように、ここに転載しておく。と、こう書いて、またどうせ忘れるのだろうが、少なくとも、しばらくは「消化」と「昇華」のキーワードで検索できるわけだ。

……………………………………………………

たぶん、この芝居は、芝居や表現の専門家風の鑑賞、つまり仔細に演技や発声などの表現の一つ一つをチェックし、その完成度を、似非グルメが料理に星をつけて採点するように鑑賞するなら、あまりよい得点は得られないのではないかと思う。だけど、ちかごろの、そうした表現者のための表現のようなものは、「究極の完成度を求めて」生活の現実から逸脱しすぎたオシャベリ、おしゃれで上手で如才ない生き方のようで、まったくつまらない。

セオリーどおりの表現は、写真だろうとイラストだろうと文章だろうと、どんなに完成度を高めても、無難に行きつくだけだろう。そういうのが、ちかごろは多すぎる。

現実をえぐったもの、場所の物語を伝えよう、考えようとするなら、表現上の技術的な完成度は、そこそこのほうがよい。高い完成度は、思考の自由やエネルギーを奪うからだ。もっとも、完成度を知ったうえで、それを一歩か数歩か数十歩か手前で抑えたり崩したりしながまとめきるのは、至難のワザだが、そういうチャレンジは必要におもう。ちかごろ、そんなことを強く思うことが多かったので、この芝居は、とてもよかった。考えてみれば、少なくともおれは、表現の完成度を求めて芝居を見に行っているのではない。

……………………………………………………

もう一つ、関係ありそうなこと。今月のなかごろ、ある女と、こんなメールのやりとりをしている。やはり忘れないように、簡単にまとめてメモしておく。これはクウネルの本『私の作る郷土料理』をめぐってのことだ。

おれは、こう書いている。「そりゃそうと、あのお借りした本ですが、たいへんよいですね。というのも、ああいう「郷土料理」の本というのは、神棚に飾って拝むようなものが多いので、激しく偏見し手にも取らないし、この本もお借りしなかったら、きっと読まないままだったと思います。この本は、生活に対する視線があふれていて、それが本来なんだろうけど、とてもよかったです。というわけで、この本を買うことにしました。」

それに対する彼女の返事。簡単明瞭。「『私の作る郷土料理』はクウネルの底力というのか、へんにいい話に昇華させすぎていないのがいいのでしょうか。」


おれは、ナルホドと思った。

ま、それぞれ、微妙にちがう話だけど、微妙に関係していそうだ。

近頃とくに気になるのは、「ナチュラル」「シンプル」を謳うようなものまで、ほらどうだ「ナチュラル」、ほらどうだ「シンプル」、ほらどうだ「エコ」、ほらどうだ「地球に優しく」、ほらどうだ「癒し」、ほらどうだ、いい話だろうカッコイイだろう、ってなかんじをベタベタに表現するのが多いような気がする。

まるで空白をなくすようにベタ、「ナチュラル」「シンプル」「エコ」……で、文章もデザインも飾り立てる。そりゃ、ちがうだろうと思うのだが、ま、なんでもハヤリということになると、そうなんだろう。「ナチュラル・スノッブ」「シンプル・スノッブ」とでもいうか。ようするに「へんにいい話に昇華させすぎて」いて、クサイのだ。

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ところで、郷愁ベタベタの「レトロ・スノッブ」なんてのもありそうだが、先日の大井競馬場のコレには、けっこうおどろいたというか、「よくぞ」と思った。

古いメインスタンドのとなりには、モダンな豪華VIPなスタンドが建っているが、古いほうの100円だけの入場料ですむメインスタンドの階段の「壁画」だ。そもそもこの建物は、こんな絵などなくても「レトロ」であるのだけど、「せんたく屋」の右側の電柱広告が「民衆病院」だ。この病院は直接しらないが、こういう「民衆病院」の電柱広告は、千住は北千住駅の東口から近いところにあった。おれは写真に撮っている。たぶん1996年頃と思われる。その後、そのあたりはかなり変ったので、いまでもあるかどうかは、わからない。

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とにかく、「民衆病院」の電柱広告がある絵におどろいた。さすが民衆の大井競馬場だ。どうせ「昭和レトロ」をやるなら、これぐらい「民衆」と「大衆」で、ベタベタにせまってほしい。いやあ、この「壁画」はよいですねえ。オシャレなスノッブとはちがいますね。「へんにいい話に昇華させすぎて」いませんよ。便所マークもね。

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あのさ、「赤キャップ」と「純」なんだけど。

いま、午前一時過ぎで、いま、大発見のように書く。いまごろそんなことに気がついたのかといわれそうだけど。

寶焼酎の、「純」25度と、赤キャップは、中身がおなじだよな。そうだよな。

どうして、いままで気がつかなかったのだろう。
そういうことって、あるんだよなあ。

おなじ「純」でも35度のほうが、コクがある、というか「深い」ように感じる。
ウチの近所では、この35度が、なかなか手に入らない。

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2008/07/28

ベタはよくないし、「消化」も「昇華」も、ちょうどよく、いきたいが。

きょうは少々二日酔い気味にもかかわらず、仕事は順調に片づいている。やはり、少しほろ酔い状態のほうがよいのだろうか。コツコツ仕事のあいだに、「理解フノー」のために、『四月と十月』の最新号、この4月発行の18号をパラパラ見る。

この号については、中原蒼二さんがブログ「吹ク風ト、流ルル水ト」の5月6日に書いておられ、そのあと中原さんに会ったときに、「ライターでもないひとたちにこんなにうまい文章書かれたら、あんたたちどうする」とからかわれた。しかしこれはもう、たしかに中原さんのおっしゃるとおりのなのだ。

なので、その5月6日の「四月と十月」から引用。


いまや、わが日本に美術雑誌という括りはないのだろうが、それにしてもレベルの高い充実したメディア(?)である。

まず、楽しんでつくっていることが読む側に伝わってくる、これがいい。
(略)
そのうえ、このことは大書しておかなければならないが「文章がいい」。
どの人の文章がいい、というのではない。
開いたページの文章を読んで、フゥーッと息を吐く。そうするとだんだん気持がゆっくりとしてくる。
名文を書こうという意気込みがない。ちょっと技巧をこらして…というスケベ心がない。
しかし、なにかが伝わってくる。フゥーッと息をする。
そうだ、この感じが『四月と十月』に静かに満ちているのだった。


そうなのだ、そうなのだ。そうなのですね。

表紙の絵は、美術教師から教頭先生になった、田口順二さん。「表紙の作品について」で、「この絵はゴミ拾いをしている自画像です。朝学校に行って校舎の周りのゴミを拾います。ガムの吐き捨てや、タバコの吸い殻、お菓子の袋など毎日拾います。学校では禁止されているはずのものが、なぜか多量に落ちています」と書いている。続いて、表紙のデザインをした内藤昇さんが、書いている。「田口さんは中学校の教頭先生である。/さぞかし大変だろうなぁ、心身共に。/腐ったミカン世代の僕としては心の底からそう思う」

久家靖秀さんの文章は、「家出」のタイトルで、「十歳の息子が家出をした」と書き出す。
息子さんは無事にもどってきた。久家さんは、文章をこう結ぶ。


 後日、二人きりの時にこう聞いてみた。
「どうしてあんなに遠くまで行っちゃったの?」彼はうーんとうなってから答えた。
「前から、一度家出してみたかったんだよね。警察の手も及ばない遠いところに。」


古墳部の旅行のとき、久家さんと、温泉につかりながらだったか、酒飲みながらだったか、このことについてアレコレ話した。10歳から中学生ぐらいまでのあいだというのは、思いがけないことを考え、なにかのはずみにやってしまうことがあるようだ。けれど、おとなになると、そのとんでもなく思いがけないことを考えていたことも、忘れてしまう。おれが尊敬する都内の中学校の先生は、「人間は中学生ぐらいのときに一度死ぬのである」というのが持論で、なんどかその話しを聞いた。関係ありそう。

有山達也さんの連載「装幀のなかの絵」は、「完成っていつ?」のタイトル、近頃おれがときどき考えていることに接点があって、いまでも考えている。

雑誌「クウネル」に掲載の川上弘美さんの短編小説の挿絵のことだ。「川上さんの原稿を読んでから挿絵を誰にするかを考え、全体のレイアウト、仕上がりも同時に進めることにしている」「今回は若手のイラストレーターに依頼を決めた。堺直子さんという方で、事務所に送ってくれたファイルを見ていいものを感じていた」

「堺さんへの依頼は「自由に描く」ことと正反対の窮屈なやり方を考えた。それは逐一進行に干渉をし、具体的に指示を出していくものであった。この方法を彼女に了解してもらった」

彼女が描いた絵を携帯電話のカメラで撮影しメールで送ってもらい指示することを繰り返した。カンジンなことは、ここからだ。

「続けるうちに顔を含めて段々と良くなってきたけど、逆にこなれた感じも出てきた。こなれてはいけない、この辺りが潮時と判断し、オーケーの返事をした」「オーケーを出した絵とそれまで描いた(彼女が納得している)すべてのものを一緒に送ってもらった。」

「その中に混じって描きかけのような、練習のあとのようなものに目が留まった。最後の絵よりとても魅力的だったが、これは決して本人が選ばない一枚ではないだろうか。本人が気付かないうちに絵は完成されていた。魅力的なものが途中で捨て去られてしまうこともあるんだな、と。」

それで有山さんは、「彼女に電話して違うものをチョイスしたことを話した。」

これはまあ、有山さんならではの話しで、誰でも真似できることじゃないだろうけど、おれが興味をもったのは、「逆にこなれた感じも出てきた。こなれてはいけない、この辺りが潮時」という判断だ。近頃、これって、けっこう大事だなあと思うのだが、ま、低能力のおれには、わかっちゃいるけど、なかなかできない。どうしても、ベタのベタベタにこなしてしまおうとする。

んで、しかし、これが、ひとのことだとよくみえる。よくわかる。
だから余計に気になるのだが……。てなところで、ちょうど時間となりましたあ。

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川崎、大井、飲んで、馬券、泥酔。

Kawasaki_maruきのう。12時川崎駅集合、15分遅れて飲み会場へ直接行く。シノ、タノ、クマ、コン、若き独身野暮男たち。なんだか、かなり久しぶりにNHKのど自慢なんぞを見ながら食べかつ飲む。ビールのちチュウハイ4杯ぐらい飲んだか。大井競馬が始まる15時ごろ、移動。生ビール飲みながら、1レース、2レースは様子見、3レース、5レースでピンときた馬があったので単勝で、それぞれ三百円買い、どちらもきたからあわせて三千円ぐらいになり、ま、酒代の足し。最初は閑散としていたが、夕暮れどきになると客が増える。若い子連れが多い。

Ooi
Ooi02

5時半ごろ、クマさん、町内の祭り太鼓の練習のため早退。残りは、7レースぐらいまでいて大井町に移動。ふらふら、よい大衆酒場を見つけ入る。客は男のみ。だけどテレビで競馬や競艇みながら、みななごやかで明るく和気あいあい。いい雰囲気だ。ホッピーのち焼酎ロック。かなり酔う。9時すぎ出て、帰る。ヨレヨレ泥酔記憶喪失帰宅。

Kawasaki_tano

この日、タノさんが恥ずかしげもなく着ていたスタバのパロディ、エロTシャツ。もちろん買ったのは海外。いずれ、おれの、ポルトガル産の淫売宿Tシャツと並んで撮影しようと思う。さらにまた女が縁遠くなる一日だった。が、酒と賭博の、なかなかよい楽しみ方だった。酒と女がかなわぬならば、酒と博打があるさ。

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2008/07/26

「理解フノー」のはじまり。

一年前の7月25日の夜。岩手県釜石の呑べえ横丁の通りで、おれは「理解フノー」を叫んでいた。それが、はじまりらしい。

そのときの様子を、「酒場部会報」(2007年11月29日、集英社内/酒場部発行、著者・牧野伊三夫/鴨井岳、デザイン・横須賀拓)の、釜石呑べえ横丁「鬼灯」の項の最後に、鴨井さんが簡潔に書いている。


 店を出ると、長屋のどの店もお客さんで埋まっていた。鉄は冷えたが町は人のパワーがみなぎっていた。エンテツさんが突然若者に呼び止められてまたほえた。
「理解フノー」


ワレワレ古墳部の旅の先発組、牧野さん、鴨井さん、川原真由美さん、瀬尾幸子さん、アンドおれは、呑べえ横丁の「鬼灯(ほうずき)」で、しこたま食べて飲んだ。もちろんおれは酔ったが、まだ正体を失うほどではなかった。

呑べえ横丁は、下記のリンク先にある画像を見てもらえばわかるが、たくさんの小さな飲み屋が並ぶ長屋だ。おれたちは「鬼灯」を出て、「鬼灯」の女将に推薦された中華料理屋「新華園本店」へ向かった。おれだけなぜか少し遅れ気味に、ふらふら歩く。すると、呑べえ横丁の一軒から、2人の若い男が、肩を組んで元気よく路上にあらわれた。

彼らは、なにかさけんでいる。おれが呼びとめられたのか、おれが呼びとめたのか、そのへんは正確に覚えていない。三人で並んで肩を組むように、あるいは歩きながら輪になって、なにかをさけんだ。

そのとき、おれは頭のなかに沈殿していた何かをふりはらうように、「理解フノー、理解フノー」とさけんだのだった。「どこから来たんですか?」と問われ、「理解フノー」というかんじでも、さけんでいた。

その若者たちは、おれたちが連れて行ったのか、彼らが勝手についてきたのか、「新華園本店」にも一緒に入って、呑みかつ食べた。なんだかわけのわからんニギヤカな成り行きのなかで、おれは「理解フノー」を、さらに「ぼくらはみんな生きている」のメロディにあわせ「ぼくらはみんな理解不能」と、何度もうたっていた。

そのあと、これが気に入って、何度かくちずさみ、帰りに八戸から乗った東北新幹線を、おれはひとり盛岡で降りて、みなと別れるときも、これをうたった。

「理解フノー」だ。
「理解フノー」は一年をすぎ、いま新しい段階を迎えようとしている。
それはなんだか、いいことのような気がする。
理解フノーの女もいるのだが。

ま、やることをやってからだ。予定どおりなら、10月末にはカタチになるだろう。
そして、釜石の呑べえ横丁は「理解フノー」発祥の地になる。のだろうか。

それはそうと、釜石も、岩手の海岸線沿いの釜石から八戸も、よかった。そちらへ行く予定のひとは、地震キャンセルすることなく、行ってほしい。


関連
2007/09/06岩手県釜石 呑べえ横丁

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2008/07/25

文章のオベンキョウをしてみるかと思うこともある。北九州から電話。

コツコツ仕事もかなり片づき、ほぼ普通のコツコツ状態にもどりつつある。今回、いろいろあったなかに、1回につき420字ぐらいのコラムを10回分書いて納めるというオシゴトがあって、それはイチオウ締め切りに間に合うように書き、そのあとの校正も締め切りの一日前に余裕をもって終わった。

が、そのオシゴトをやりながら、これまで文章のオベンキョウなんざしたことがないよ、を自慢にしてきたおれだが、やはりオベンキョウしなくちゃいけないか、いかんなあこれではと、何度かシミジミ思った。420字ぐらいだと、どう書いてもイマイチなのだ。内容的にはよいし、おれらしい内容なのだが、どうもイマイチ表現がねえ、芸がないというか。それでも、おれは文筆労働者だから、刻限は守るのだが、ゲラにはこれまでにないほど赤をいれた。なんとか「普通の味」レベルになったか、どうか。

またもや故郷の、朝日読売なんかクソクエラエの新潟日報なんだけど、生活欄の「甘口辛口」というコラム。8月5日ごろから、金、土、日と新聞休刊日をのぞいて10回連載になります。新潟のしょ、よろしくね。ちょうどお盆が入るから、里帰りしているひとも見られるかな。

このコラム、7月には、牧野伊三夫さんと「酒場部」をやっていた、鴨井岳さんが書いている。それで、まあおれが紹介されたらしい。鴨井さんは、7月7日に、おれのことにふれている。通信社の方からコピーが送られてきたのを見た。

「尊敬する大先輩に新潟出身のエンテツさんこと遠藤哲夫さんがいる」という書き出し。「僕なんぞは舌がおごっているので、うまいものを食べ、うまい酒を飲むとついウンチクをたれたくなるのだが、エンテツさんにかかると「とやかくいわずにめしをくえ!」で、いつもしかられる」

って書いているんで、んじゃま、ここでもやらしてもらうかと、鴨井流グルメも含め、たかだかチョイとだけ経済大国を経験したぐらいの成り上がり市民の庶民が、グルメを気どるんじゃねえよ、という感じで書かせてもらった。ありがとね、すまんね、岳ちゃん。

きょうは、必要があって、片づけをやりだしたらとまらなくなった。片しているのか散らかしているのかわからん状態で、ゴミに埋もれているとき、電話が鳴った。出ると、牧野さん。いま北九州だという、大竹聡さんも一緒だという。戸畑の祭りだという。いいなあ、おれも行きたいよ~。

そうそう、きょうあたり、「山」特集の「雲のうえ」8号が発行になっているはずだが、次号の10月発行では、再びライターに大竹さんが登場するのだ。その取材なのだな。さて、次号のテーマは? 大竹さんは、何を書くのでしょう。それは、最新号を見ればわかる。

わざわざ北九州から電話の牧野さんの用件は、牧野編集長の原稿の件。あれこれ、テーマについて話す。牧野さん「とくに芸術だの美術だのを気にすることはないですよ、うふふふ、遠藤さんは、存在自体がアレだから」「えっ、アレって、おれの存在自体が芸術なの?美術なの? おれ、存在自体がコメディだともいわれています」「あははは、大竹さんが角打ちへ行きたいといっています」「なぬっ、シゴトしろ、シゴト」「飲むのもシゴトですから」……祭りと酒、いいねえ。

くそっ、大竹と牧野め。と怒っていると、なにか空で音がする。暗くなって、スゴイ雷が来襲。くそっ、この雷、北九州へいきやがれ。しかし、あまりにもすごい雷なので、パソコンの電源を切る。すこししたとき、雷一閃と同時に停電。

さてねえ、文章のオベンキョウ、どうするか。なんとかコラムは片づいたことだし。やっぱ、やらないにするか。怠け者としては、それが正しいよな。

しかし、牧野さんは、いくつもの忙しい仕事をこなして、すごいねえ、偉いねえ。ほんとだよ。

さてじゃあ、おれは今夜は、誰からも誘いがかからない金曜の夜だし、家酒とするか。北九州の方を睨みつけながら。

そうそう、食料・農業問題特集の「週刊ダイヤモンド」の最新号に、瀬尾幸子さんが料理の「おつまみ横丁」は、30万部を突破とあった。もっと売れろ。

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なぜか行ったところで強い地震が。

Iwate_sanriku070726岩手県の沿岸北部を震源とする強い地震があった。ふりかえってみると、ここんとこの強い地震は、この一年のうちに、おれが行ったところだ。

ちょうど一年前の7月25日には、古墳部の旅で、大宮発9時半ごろの東北新幹線に乗り、新花巻経由で釜石泊り。翌日、今回の震源地を北上し、八戸に至り泊まった。そして、今年の春には取材で、再び、その八戸と一関を訪ねた。そのときと去年と、盛岡には二度行っている。

中央じゃ「被害が少ない」という報道の仕方をしているようだが、このあいだの岩手の地震の現場も片付いていないうちに、今回の地震。しかも、観光シーズンを直撃だ。一年に一度の稼ぎ時なのに、大被害だろう。

八戸の、B1グランプリ事務局長の今野さんや、せんべい汁研究所の事務局長の木村さん、お見舞い申し上げます。岩手の柔道のアベちゃんたち元気でやっているだろうな。

盛岡のサキさんは、ほとんど盛岡にいないで、このあいだの被災地の現場に行っているらしいが、さらにまた今回の地震で被災地がふえたことになる。どうなるの。気をつけて。

画像は、去年の7月26日、八戸へ向かう列車の中から撮影した。たぶん、今回の震源地のあたり。


そうそう、ちがう話しだが、きのう西日暮里の元竹屋食堂の常連さんから電話があった。竹屋が閉店して2年になるのだなあ。あそこで過ごした時間は、関係者が消えてゆけば無くなるのだが、新聞や雑誌や本やテレビなど、メディアに表現されていることより、はるかに「真実」に近い。「真実」は、そのように、メディアのなかにあるのではなく、「つながる」現場にある。「つながる」「つなげる」ことだ。書き残すより、大切なことがある。その結果が、表現されたらよいのだ。須田さんが、このあいだ「ライブの箱」のことをいったが、必要なのは、それだ、ライブだ。竹屋食堂は、場末の男たちの、ライブハウスだったのだ。

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へろへろバテバテ、熱射にやられる。須田さんの「Beポンキッキ」。

おととーい、23日。朝のうちにコツコツ仕事の合間にやったエイヤッ仕事を片づけ速達で発送。郵便局へ行くついでに、10時半ごろウチを出る。すでにガンガン照り。頭髪がうすくなっていることもあり、頭蓋骨のてっぺんの縫合が未完の部分から、熱が脳内に侵入するのがわかる。いつもなら帽子をかぶるのだが、このあいだの古墳部の旅のとき、どこかに忘れてきてしまってない。

のち東大宮駅まで行き、歩く。さらに脳みそ液が熱くなる。そして冷房のないところで打ち合わせ。汗が体中から噴出する。おわって、またもやガンガン照りのなか。しかも空腹が激しい。このままでは行き倒れる、もうたまらん、ビール、ビール、ビールと、高温化する脳内で連呼絶叫しながら、歩き、電車に乗り、大宮で降り、東口駅前のいづみやに駆け込む。いづみやが駅前になければ、倒れていたかもしれない。

まったり高校野球埼玉予選のテレビなんぞを見ながら、アッというまに、生ビール二杯を飲み、ポテトフライ(ポテトサラダを頼んだつもりが、これが出てきた)、やっこ、アジフライ、やきそばなどを食べる。

しかーし、北浦和で買い物をし、ウチに帰り着くまでガンガン照りのなか。うげげげげげ、帽子がないと、ヤバイなあ。帰りついたら、気分が悪くなる。軽い吐き気。こんなことはじめてだぜ。調子が出ず、めずらしく、たいして飲まずに0時前に寝てしまう。

自分チにテレビがないので忘れていたが、このあいだの日曜日sunday slow comedy barで須田泰成さんに聞いた、いま放映中の番組、メールで案内がきたので、下記に一部を転載する。主人公のキャラが「いじいじくん」ってのが、おもしろそう。よろしく~。たしか毎日、一か月ぐらい続くはず。

須田さんと三島有紀子さんとのコラボだそうだ。三島さんとは須田さんのとこで飲んでいるが、須田さんは「昭和やさぐれ乙女文学的なCMとか作りたい方、お声がけください」といっている。なーるほど。そういや、東中野の大衆酒場の話で盛り上がったのだった。

下記のとおり。

「Beポンキッキ」(BSフジ/月ー金・7:30~8:00)で昨日からオンエア、ゆるーい+なんともいえないコメディ・アニメ「いじいじくん」が始まっています。

「いじいじくん」は、2003年にNHKをやめてフリーになった演出家・脚本家の三島有紀子さん(原案・脚本・演出)と須田@大日本生ゲノム(脚本・制作プロデュース)コラボ作品。

演出の三島さんは、山寺宏一さんと水野美紀さんがPARCO劇場で演じたシチュエーションコメディ「LOVE30」の脚本や、http://www.parco-play.com/web/play/love30/
テレビ朝日のドラマ「京都地検の女」に、監督として何とあの唐十郎さんを登場させ、民放ゴールデン・タイムにATG映画の風を吹かせてジャックした兵庫のおじさんも「自分アブナい橋 渡っとんなあ。今度グラム2万の肉食わしたろか?」と思わず呟く渋い演出、その他、映画・舞台などで活躍中。

今回は、三島さんが企画を最初から立ち上げた後、ゆるいノリなら生ゲノムと、ということで、お声がけいただきました。

ちなみに、キャラクター・デザインとアニメーションは、くわじまゆきおさん。
脚本は、須田ー三島さんの共同脚本です。

声優陣が豪華です。

主役のいじいじくんは 春風亭昇太さん
友人のウキウキくんは 佐藤真弓さん(猫のホテル)
あの上々颱風の西川郷子さんが、あのハイトーンの美声で、
いじいじ合唱隊というお相撲さんキャラを。
松尾貴史さんにもカメオ出演していただきました。

こちら、昇太師匠ブログの収録の模様です。
http://blog.livedoor.jp/shinsaku12346/archives/51170484.html

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2008/07/22

「グルメ」といわずに「スノッブ」といおう。

わが「文壇高円寺」ブログの荻原魚雷さんが編集の「吉行淳之介エッセイコレクション」ちくま文庫全4巻のうちの1巻目に、「スノッブについて」という掌編がある。

きょう、コツコツ仕事の合間に読んだのだが、なぜ読んだかというと、「dankaiパンチ」8月号のパンチ図書館で、中上哲夫さんが「クローズアップ 不滅の人気作家・吉行淳之介」というのを2ページも書いていて、そこに写真入りで、「オススメ吉行本5冊」つうのがある。そのうちの4冊が、このエッセイコレクションで、もう1冊が「原色の街・驟雨」新潮文庫なのだ。

それで、おおっ、そういえば、この5冊はあるぞ、ほかに吉行本というと「贋食物誌」新潮文庫を持っているだけだ、と思い出し、この1巻を手にしたのだった。

そりゃそうと、吉行さんは、その書き出しで、「スノッブとは、簡単にいえば「上品ぶる俗物」とか「いなか紳士」とかいう意味である」と述べる。

おお、そうか、そのようであるな。ま、イコール、「教養ぶる俗物」とか「知ったかぶる俗物」とか「知識情報ひけらかし俗物」とか、コンニチふうに「オシャレぶる俗物」とか、「アートぶる俗物」とか、いろんな言い方が、どどどどど~と脳から浮かんだ。

そして吉行さんは、翻訳を手こずったという、イギルスの作家キングスレー・エイミスの「酒について」を持ち出す。「このエイミスの書物が、アンチ・スノッブで一貫していて、それも酒について語りながら人生全般に対する姿勢という趣がある」というぐあいなのだ。なんだか、アンチ・グルメのおれのことのようだなあ~と、ぎゃははは、そうは思わなかったが。

で、「たとえば、エイミスは「ワイン・スノッブ」という言葉を使って、これをからかう」と。この場合の、「スノッブ」というのが、どうやら昨今の「グルメ」とイコールのようであるのだ。

以下引用…………………………………………

 ところで、エイミスの言う「ワイン・スノッブ」というのは、その実体はどういうものか。
『良いぶどう酒というのには、あきあきしたよ。むしろ、悪いぶどう酒というやつのほうが、私は好きだね』
 という言葉が、本場でもある。
 これは禅問答のような言葉だが、くだいて言うと、
『良いぶどう酒というやつは、いろいろ講釈がついてうるさくて厭になる。むしろ有名でないぶどう酒を余計なことを聞かずに飲んだほうが気分がいい』
 と解釈してよいだろう。
 別の言い方をすれば、飲食物というのは、その個人個人の、それもその日の気分によって大きく左右されるものだから、余計なことを傍から言うのはよくないということになる。
 エイミスもそういう見解の上に立って物事を見ているが、そのエイミスでも「あっ」と驚いた話を聞かされた、と書いている。
 ある田舎の老夫婦が、グリルした鰈を食べながら、ペパーミントの甘い酒を飲んでいた、という話しを聞かされたときである。私がその感じを想像しても、胃のあたりが鬱陶しくなってくるが、エイミスは驚きながらも、
『その酒が小瓶であったことを、私は祈りたい』
 というような言い方をするだけの柔軟性を持っている。

…………………………………………引用、おわり。

じつは、この1巻は、おれとは無縁どころか、おれが嫌いな「紳士」がテーマなのであり、だから、この引用の最後のところが、書き出しの「スノッブとは、簡単にいえば「上品ぶる俗物」とか「いなか紳士」とかいう意味である」との関係で生きてくる。まっこと、エイミスは紳士なのである。そして、そういう意味では、なるほど、見渡したところ「グルメ」に、紳士は、あまりいないよなあと思う。「グルメ」って「スノッブ」なんだよなあと思う。

この引用のところの、「ぶどう酒」を、ハヤリの「焼酎」でも「純米酒」でも「スイーツ」でも「モツ」でも、あるいはほかの食べ物や「大衆酒場」や「立ち飲み」や「下町」や「昭和}など、はたまたナチュラルライフな雑貨や本などに置き換えてみよう、いまや「スノッブ」だらけなのだ。

と、かくいう「アンチ・スノッブ」も、「アンチ・紳士」も、頑なになると、おれのようなアンチなだけのスノッブになるというのが、引用のところの含蓄でもある。

ですがね、わが「飲み人の会」は、このように主張している。「「ザ大衆食」のサイトを主宰するエンテツの楽しく飲む人たちの会。よい店よい酒よい料理にこだわることなく、楽しく飲む人間をみがく。なんてね。」

「よい店よい酒よい料理」なんてものは、「いろいろ講釈がついてうるさくて厭になる」、「むしろ有名でない」店や酒や料理を「余計なことを聞かずに」楽しんだほうが「気分がいい」。と、こういうわけだから、おれは、やっぱり、エイミスさんのような、ホントウの紳士なのかもしれない。

うふふふふふ。紳士は、みずから紳士ぶらないものである。「紳士、大嫌い」といったりする。控えめなのだ。

そんなわけねえか。おれは野蛮人だよ。おまえと一発やりたいだけだ。文句あるか!

いや、ほんと、おれは安くてマズイ飲食店が好きなのさ。「良い飲食店」なんか、あきあきしたよ。

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好きな五竜岳。

Goryu

午前2時過ぎ。今夜のヨツパライ深夜便は、これだ。

2008/07/05「四月と十月古墳部「ヒスイの旅」から帰る。」に、「この20年間のうちに何度か行って、そして見たくてしようがないのに、ほかは晴れてもその頂上だけは雲がかかって見えなかった、五竜岳も見えた。おれがイチバン好きな、厳しい武骨な山」と書いた、五竜岳。標高2,814m。白馬で泊まった民宿の部屋から、4日の朝、撮影。

2回しか頂上に立てなかった。いずれも画像右手にかくれている唐松岳から、左手奥にかくれている鹿島槍への縦走。一度は8月下旬、一度は11月上旬で新雪をかぶっていた。

いまでは、画像の左手にのびる、遠見尾根コースからキャビンを利用するアプローチが容易になったが、かつては、どこから行っても一泊必要のうえ、尾根コースをたどっても急峻な岩で足場が悪く、クサリ場もあるし、油断ならない。体力と技術が整っていないとリスクが高い。とくに、五竜岳の頂上直下は、頂上に立つルートによっては、短いがヘタな岩登りより緊張が必要とされる。

毎年のように、この頂上付近で遭難があるようだが、去る4月28日には、「日本を代表する」といわれる山岳スキーヤー、クライマーの山岳ガイドで東大スキー山岳部監督、新井裕己さん(32)が、頂上から300メートルほど下で、滑落死しているのを発見された。

秋の朝、たしか9月下旬、この写真の位置より、もっと山に近づいた五竜を仰ぐ位置から、五竜全体が朝日で真っ赤に染まるのを見たことがある。紅葉と、むきだしの岩肌が朝日を受けて、真っ赤になるのだ。もう二度と頂上に立てないし、立つ気もないが、その光景だけは、もういちど見たい。

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2008/07/21

北九州、祭りのDNA。やさぐれもんの血が騒ぐ。

Kokuragion02この三連休、きょねんは「雲のうえ」のロケハンで北九州にいた。ちょうど小倉祇園祭りのときで、到着した17日から毎夜、街角の祇園太鼓の練習の音が響き、祇園太鼓競演会を迎える前夜の20日は、「宵祭り」にあたるのだろうか、アーケードのある小倉の中心街も、屋台や山車、太鼓の音に人の群れで、はちきれんばかりだった。

おれと、編集委員の牧野伊三夫さんは、太鼓の音を聴きながら、何度か酒を飲んだのだが、クライマックスな20日の夜は、太鼓の音にじっとしていられず、酒場をテキトウに切り上げると、その群れの中をふらふらした。小倉生まれの牧野さんは、目をうるませ、祭りに身をまかせていた。そしてまた一軒の酒場に入った。そこには練習を終え、上半身裸のままの男たちもきて、一緒に飲んだ。

Kokuragion03小倉祇園太鼓は、太鼓の大きさも、こけおどしような大きなものはないし、見た目は屋台や山車も、とくに飾りに凝った派手なものではない。しかし、太鼓のリズムも単調だけど、聴いているうちに、静かな水が小刻みにゆすられながら波立っていくように、肉体と血が騒ぎ出す。「祇園」という言葉のイメージとは、ややちがう、やさぐれ感がただよい、それが生々しく肉体をゆするような気がした。「祇園」でも、ここにはここの、DNAがある。何度か、そう思った。

北九州の祭りは、小倉祇園太鼓だけではなく、きのうあたりニュースになっていたと思うが、八幡西区の黒崎、そして戸畑の祭りが有名だ。

Kokuragion04北九州では戸畑の祭りを熱く語るのを聞いた。その祭りを体験したことはないが、戸畑区と洞海湾をはさんで隣接する若松区の、その洞海湾に面して建つ、若築建設「わかちく史料館」を見学したとき、若松や戸畑にかぎらず、海と鉄と炭鉱と深い関係で発達した北九州の労働と生活に流れる、DNAを感じた。それが祭りの人びとに流れている。

「わかちく史料館」は、一民間企業のこの手のものでは、かなり優れたものだと思う。と、おれがいうのは、「学者」「研究者」的な意味ではない。おれは、小規模ながら、じつに深い感銘を受けた。

この史料館は、一企業の歴史を残したものだろうけど、経営サイドの資料だけではなく、企業の環境、そこにあった労働の生活にまでわたって、展示してあった。それは洞海湾の歴史であり、北九州の歴史であり、炭鉱の切羽で働く、あるいは海上で働く、生々しい労働の姿でもあった。文学的?な言い方になるかもしれないが、たくさんの「無法松」を想像した。

少ないが祭りの写真もあって、なかでも印象に残ったのが、海上を舞台にした祭りの、みるからに「荒くれもの」たちの男や女の姿だった。

「祭り」は、「ハレ」と「ケ」にわける民俗学者によって、「ハレ」に分類されることがほとんどだが、少なくとも、これら北九州の祭りは、そういう分類は不当であるような気がした。ここの祭りはちがう、もっと激しい労働の日常の延長なのだ、ここならではの労働と生活のDNAがある。そこに祭りが組み込まれているのだ。そう思いながら、資料を見た。おれは、北九州の息遣いに耳をかたむけ、その地のエビス信仰と、働き食う生活が、かなり深い関係にあるのではないかというヒントを得た。


Kokuragion01そんなふうに、いろいろ考えた結果が、「雲のうえ」5号の「はたらく食堂」の文章に直接あらわれているところもあるが、血肉の部分を形成しているにちがいない。ここに立ち寄らなかったら、どうだっただろうかと考える。「食堂」のロケハンで、飲食店をかけまわるだけでなく、ここにおれを連れて行った編集委員の大谷道子さんは、やはり編集者として、ただならぬ「感」の持ち主だ。と、おれは思っている。

いま一年前の写真をみると、あらためて、そのことを思い出す。

掲載する最後の画像は、昨年のきょう21日19時20分ごろ撮影。小倉祇園太鼓競演会が終わって、会場の小倉城がある公園から、各町内に帰るところだ。この夜も、遅くまで祇園太鼓が鳴り響き、おれは牧野さんの中学同級生の飲み会についてゆき、泥酔した。翌日22日、午後、北九州空港から帰った。

「街的」にみれば、祭りのDNAが、まちをつくっているまちと、そうではないまちがあるような気がする。祭りのDNAも、さまざまなのだ。

わかちく史料館
http://www.wakachiku.co.jp/shiryo/top.htm

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sunday slow comedy bar

連休中に終わらしたいコツコツの仕事をコツコツコツやっていたら、けっこう出かけるのが遅くなった。

でも、須田泰成さんのゴールデン街Mバーでのsunday slow comedy barは、8時開店といってもボチボチ始まり、夜半にかけて盛り上がり午前は成り行きで終わるというものだから、8時半過ぎの到着は早いほうだ。

今夜も、いろいろなひと。一言で職業あるいはシゴトあるいはやっていることを言い切れないひとが多いのが「須田人脈」の特徴のようだ。ビールのち焼酎を、比較的おだやかに飲む。あれこれオシャベリしていると、すぐ埼玉の空の下に帰らなくてはならない時間。11時半ごろ新宿発。ほろ酔い。

須田さんの、ライブをやる箱の話、なかなかおもしろし。ぜひ実現したい。うふふふ、おれもいろいろ企みがあるのだ。

とりあえず今夜は、こんなところで。まもなく午前1時。いまごろMバーは盛り上がっているか。

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2008/07/20

「なぜか、いやに鮮明な「故郷」の映像」

「dankaiパンチ」8月号の特集は「スタジオジブリ大研究」だが、おれはテレビがないこともあって、あまりジブリ作品をちゃんと見た記憶がないし、「郷愁」のおぼえもない。だけど、たいがいは郷愁を感じるものであるらしい。

かくて、浅羽通明さんが「宮崎駿、郷愁の秘密」を解剖するのだけど、浅羽さんは、宮崎作品に「懐かしさ」を感じるけど、それは「最近の昭和ブームがいう郷愁とは、幾分は重なりつつも微妙にずれる」と書き、とくにそのずれの部分を解明していく。そこがおもしろいので、その部分だけメモしておく。

若いやつら、つまりその当時この世に存在していなかった連中が、昭和30年代に「懐かしさ」を感じる話を、ときどき聞くが、そのことにも関係する。つまり宮崎作品には、自分が体験したことのない光景などがたくさんあるわけだけど、それを見て「懐かしさ」を感じるのはナゼなのか、ということなのだ。

浅羽さんは、星新一さんのエッセイ『きまぐれ博物誌』から引用する。『郷愁の対象となる、その故郷の光景。それはなぜか、いやに鮮明である。ふしぎな現象といえよう。私はかつて、これを「双眼鏡をさかさにのぞいた眺めのように遠くなつかしく、静かに充実している」と形容したことがある。だれもがそんなふうに頭に描くのではないか。/ 現実に存在していない世界を、頭のなかに鮮明に描きあげる。それが郷愁なのだ』『故郷があるから郷愁がおこるのではなく、郷愁があるから故郷が作られてしまうのだ』

文学や映画や、さまざまな知識や記憶の断片が動員されて、「故郷」が作られる。

なぜそんなことをするのか。そこで浅羽さんは、「宮崎駿監督が一九七九年、『月刊絵本別冊」でアニメーター志望者向けに記したもの。題もずばり「失われた世界への郷愁」」から引用する。『多くの人が、自分の置かれている環境を不幸せだと思わなくても、なにかみたされぬ部分があるはずだ』

そして浅羽さんは、こう述べる。「星新一は、人類滅亡といった悲惨な空想すら「故郷」足りえるとした。耐え難い人間関係に比べれば、そんな地獄絵のほうがまだ爽快感があったりするからだ。宮崎駿も、「ミドルティーンの年代において『アンネの日記』が幅広く読まれるのも、ああいう状況そのものがうらやましいという気持ちがあるからだろう。極限の状況の中で緊張して生きてゆく──そういう人生に憧れを抱く」と指摘する」

おれは、ここで、いま小林多喜二の『蟹工船』がブームというか、売れていることを重ねて考えた。

とにかく、「耐え難い人間関係」「なにかみたされぬ部分」が郷愁へ向かわせることがあったとしても、すべの人が、そこから郷愁へ向かうわかじゃないだろう。そのへんは、高畑監督へのインタビューで構成された「高畑勲が昭和を描く理由」によって埋められる気がした。そのようにして、宮崎監督と高畑監督は2人で、日本人の「耐え難い人間関係」「なにかみたされぬ部分」をわしづかみにしてきたことになる。、

おれは、ここに書いてある高畑勲さんのほうにより共感するのだけど、それは単に、おれの記憶力があまりよくないということなのかもしれない。本を読んでも映画を見ても仔細はスグ忘れる、むかしのことなど細かく覚えていない、きのうのことだって忘れてしまう。ボケ老人には、記憶も郷愁も希薄だ。するってえと、もしかすると、不幸にして記憶力がよすぎるひとたちが、郷愁に向かうのかもしれない、と思ったのだった。

そういや、おれのまわりで、若いのにむかしのことをおれよりよく知っている連中は、記憶力がよいようだ。なーんだ「郷愁」って、ただそれだけのことか。いや、ま、高畑さんの記憶力が悪いってことじゃないけど。

閉塞から脱出するには、記憶力より想像力だ。

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「郷愁」とはなんじゃ。ヘタで珍しい揮毫をどうぞ。

けっきょく、あとであとでと過ぎてゆく。まさか、このまま終わることはねえだろうと、タカをくくっていると、このまま終わることもある。彼女とおれの関係は、そうあってほしくはないのだが、書かないでいれば、なんだか書くのも調子がのらず、いたずらに、でもないが、何かに忙殺され時はすぎる。

と、いうわけで、彼女とおれの関係ではなく、2008/07/17「ふるさとひと、ジャーナル。俺が住んでいた家は消滅した。」の続きが、なかなか書けないでいるうちに、いまさら続きを書くのもなあ、という気分に傾斜している。でも、たぶん、そのうちに書くだろう。

「俺が住んでいた家は消滅した。」とタイトルに入れたのは、2008/07/15「早朝、故郷から電話。新潟日報の記事。」に書いた、その朝、故郷の同級生のクボシュンさんが教えてくれたのは、おれの記事が大きく載っているということだけではなく、おれが小学校6年生ごろから高校を卒業するまで住んでいて、20歳のころ差し押さえられ競売にかけられ人手に渡ったが、でもそのままつい最近まで残っていた家が、横を流れる川の改修工事のため、あとかたもなく取り壊されたということだった。その前、生まれてから10歳ぐらいまで、父が稼業に失敗し父母が離婚するまで住んでいた家は、とうの昔に人手に渡り、あとかたもない。

ちょうど、新潟日報の記事には、「思い出のスクリーン」というコーナーがあって、2008/07/17の画像を見てもらえばわかるが、左上に写真が一枚ある。これは、記者に聞かれ、即座に「坂戸山」と答えた、その山の写真だ。この写真を見て、クボシュンさんの知らせを思い出し、ひともひとがつくったものも消えるが、山や川は残るのだなあと思ったことであるよ。

坂戸山のことは、ザ大衆食のサイトをつくった早い時期に書いている。当時は、わりと好評で、ほかに掲示板などで紹介され、けっこう読まれた。2001年12月1日の掲載になっているが、これは、その11月に新潟日報から一年間週一回の連載の打診があり、越後湯沢で担当の記者と会って打ち合わせしたあと、ひさしぶりに六日町に立ち寄ったとき、思い出したことを書いた。

ザ大衆食「坂戸山」…クリック地獄
新潟日報02年1月7日から03年2月10日まで連載「食べればしみじみ故郷」…クリック地獄

先日届いた、「dankaiパンチ」8月号の特集は「スタジオジブリ大研究」で、こう、これでもか!というぐらい「郷愁」攻めだ。7、8割は、郷愁の押し売りのように見えるが、仔細に見ると、かならずしもそうではない。そのへん、近頃の編集は「巧妙」というか「ズルイ」というか「したたか」というか。

メイン記事は、浅羽通明さんが「宮崎駿、郷愁の秘密」を書いている。つまりは「評論家浅羽流」で宮崎駿さんの「郷愁」を解剖している。ちょっと、なんだなあ、読者サービスと「論」と、ちぐはぐ無理があるなあと思いながら、でも、「郷愁とは何か」について、「懐かしさ」について、それなりに解剖してみせてくれていて、「読みごたえがある」とはいえないが、考えるヒントにはなっておもしろい。とくに、別の記事「高畑勲が昭和を描く理由」というのがあって、それと合わせてみると、なかなか考えさせられる。

高畑さんの記事は、サブの見出しに「過去を振り返ることを快感にはしたくない」という本人の言葉があり、記事中でも本人は、「『三丁目の夕日』なんて映画を、あの時代を生々しく生きてきた世代が、涙眼で観てるなんてのは不思議で仕方ない」と語っている。

そりゃそうと、2008/07/17「ふるさとひと、ジャーナル。俺が住んでいた家は消滅した。」にも書いたように、その記事にも、大見出しには、「郷愁」という言葉が使われているが、これはたぶん新聞社の「慣例」あるいは「職務分担」で、整理部がつけたものだろう。見出しは、やはり読者を意識して、そのようにベタなものになる。が、内容は、ジャーナルな姿勢がつらぬかれていて、淡々というか、伝えるべきことを正確に伝えようという文章であり、「郷愁」を煽るような書き方ではない。

この記事の最後は、このように終わる。この終わり方、おれは、とても気に入っている。

「故郷を離れて四十年以上がたつ。故郷を思い出す普通の味はと尋ねると、遠藤さんは「大崎菜、木の芽…」と指を折った後に、「あ、ジャムとマーガリンを塗った食パン」と笑った。高校時代によく、学校近くのパン屋で食べた味だと言う。「別に特産でもないのにね。でも、たまに無性に食いたくなるんだよな」

過去の定型的な「郷愁」「ふるさと」「懐かしさ」ベタベタならば、この文章は、「遠藤さんは「大崎菜、木の芽…」と指を折った」というあたりで終わるだろう。そこが、そうではない。

これらのことから、いくつか考えたことがあるが、それはそのうちに、書くかどうか。

Happo_isiharaおっと、タイトルに書いて忘れるところだった。先日、古墳部の旅の帰り一人で白馬に寄ったとき、めずらしい石碑の写真を撮ってきた。この石碑がここにあるのは、前から知っていたのだが、なにがめずらしいって、石原慎太郎さんの揮毫だ。このひとは、何かに書いてあったが、「書」がヘタなのを自覚していて、なかなか揮毫などを寄せないのだそうだ。しかし、このときは、環境大臣ということもあって、逃げ切れなかったらしい。この石碑は、八方の通りを普通に歩いていても目にとまらない、しかし「公共的」な場所である、かなり微妙な場所に立っている。イチオウ背後に、白馬三山が鎮座しているのではあるけど。

この書、「ヘタ」というより、いや、おれは書の見方や性格判断など興味はないのだが、なんだか未熟な狭量な性格を表しているようで、かわいらしい印象を受けた。政治家は書じゃない、気にするな。なんちゃって。

ああ、郷愁。

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2008/07/19

あとであとでの表現労働者。

チッ、午前1時をすぎてしまった。たいして飲んでない。

けっきょく、前のエントリーのあと、昼寝しておきて酒飲んで、二日酔いの身体を癒そうと思っていたのに、ウトウトまどろんだころに一本の電話。知らん顔して留守電にまかせようと思ったが、そういうことができない誠実な男ゆえ、受話器をとる。それで寝ていられなくなった。

知らなかったが、世間は三連休なのだ。こういうときは、どうしても連休前に片付けなければいけない仕事のシワシワが発生する。そのシワ寄せは、外注にくる。しかも、こういうときに便利な、けっして断らない外注をねらってくる。しかも、じつは連休明けの朝でも間に合うはずのものを、アンシンして連休に入りたい「社員」どもは、「今日中に」というわけだ。

ま、こっちは「表現ビジネス」に従事する、「表現労働者」あるいは「不安定自由文筆労働者」であるから、もちろんやりますよ。ただし、相手の足元もみる。「そうだねえ、特急料金プラスだよ」…といったところで、相手には、この男は酒代ていどをはずめばよいのだと読まれている。でも、わかっている「かけひき」、楽しむ。

そして、けっきょく、寝ていられなくなり。「約束」というと大げさだが、注文された時間までに仕上げる。

ま、おれのような低層ライターは、小さな酒場のオヤジのようなもので、店に入ってきた客の注文にしたがって作って出すのだな。

そして、一日のロードーが終わって、イッパイやりながら、きょうの客は、ああだったな、こうだったなとふりかえる。

そういうわけで、前のエントリーには、あとで続きを書くと書いてあるけど、あとであとで。

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2008/07/18

頭痛が残る午前なのだ。

きのう。このあいだ木村嬢に借りた本を返すため、池袋ジュンク堂で15時半待ち合わせ。新潟日報も見たいというので一緒に持ってゆく。ジュンク堂横路地のやきとん屋に行く予定だったが16時半からなので、うろうろしたあげく東通りのカフェで、まずはビール。暑かったから、ウメェ。16時半すぎやきとん屋へ。18時半ごろまで。ピンクゾーンの焼酎居酒屋へ移動の途中、男体山のカウンターの席が2人分あいていたので座る。中ハイ、何杯飲んだか覚えていない。のち焼酎居酒屋へ。一円大王の御神火むぎを水割りで飲んでいたような気がする。ときどき居眠りをしたらしい。ここのところ寝不足だったからか。めずらしい、眠さに耐えられず帰ることにする。22時半ごろ、池袋駅で木村嬢と別れる。記憶喪失。北浦和に着いて中華屋に入ったような気がするが、確信がない。

まもなく昼なのに、胃が焼けているかんじで頭痛もある。まぶたが重く、食欲はないし、何もやる気がしない。いかれているぜ。
「dankaiパンチ」8月号が届いていた。まだ見てない。
K田嬢からメールが来ていて、今週で、といったら実質きょうじゃないか、会社を辞めM山さんの下に移る、K田嬢の後任がモツ男さんだと。いいねえ、移動しながら、いろいろなニンゲンと混じり、いろいろな水を飲んで、向上し強くなる。とにかく、まずは祝杯?をあげなくてはいけないな。また飲むのか。いまは飲むこと考えたくない。
ほかメールいただいているけど、返事はあとで。きのうのエントリーの続きも、あとで。

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2008/07/17

ふるさとひと、ジャーナル。俺が住んでいた家は消滅した。

きのう新潟日報が届いた。開くと、なるほど、デカイ記事だ。おおっ、おれの写真、なかなかよい。いま「思い出横丁」、おれが1962年の春上京して初めて立ったところ、元ション横で撮影した。大衆メシの男らしい精悍な感じも漂っているではないか。なんだか、この風景にピッタリだなあ。

そして記事の書き出しも、このように始まる。「JR新宿駅西口脇の「思い出横丁」。路地を挟んで連なる食堂からは、焼き鳥のにおいが漂い、中華鍋の煙が上がる。そんな風景に、遠藤哲夫さんの姿はよくなじむ」

見出しには「郷愁」という言葉があるが、記事は、ふるさと郷愁ベタベタではなく、おれと「普通のメシ」「普通の味」の関係を淡々と語っていて、おれとしてはうれしいまとめだ。

……いま書いていられないので、続きは、あとで。

Nigata_nipo_kiji


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2008/07/16

カネを使いながら疲弊するのか。

「まちづくり」「まちおこし」…あまり好きな言葉ではない。でも、ニンゲン、好きなことだけで生きているわけじゃない。あまり好きではないシゴトをしてカネを稼がざるをえないように、あまり好きでないライター稼業でカネを得なくてはならないように、そのことを考えざるをえない。とくに、そういうことに真剣に取り組んでいる知人もいることだし。

「まちづくり」「まちおこし」という言葉が使われる舞台は、考えてみると、けっこう経済が疲弊している地方が多いようだ。たとえば、東京のばあい、たしか北区のように「まちづくり公社」なる活動をしているのは全区の半分以下だし、さまざまな地域活動などで「まちづくり」「まちおこし」といった言葉が使われる例は、少ない。

身近なところで「わめぞ」にしてもそうだ。すでに「谷根千」という地域ブランド市場が確立しているところでの「一箱古本市」でも、もちろんそうだ。「わめぞ」や「一箱古本市」を、地方の疲弊しつつある町でやれば、まちがいなく「まちづくり」「まちおこし」ということになるだろう。

そこんとこ、なぜかなあ、と考えると、そもそも東京、その都心には、ひとは集まるのである。そりゃ、集める仕掛けが必要にはちがいないが、魚がたくさんいる釣堀にエサをまくようなものであり、ま、もともとたくさんいる魚の奪い合いだ。そういうところでは、「まちづくり」「まちおこし」という言葉は、あまり使われないですむだろう。それに、その言葉は、なんだか田舎クサイ。

と考えると、ようするに、「まちづくり」「まちおこし」という言葉で語らなくてはならない状態というのは、かなり地域が疲弊しているか、展望のない状態のようだ。ひとがいない、どんどん減っているのだ。昼間まちを歩いても、がらんどうだ。

もし、「わめぞ」や「一箱古本市」が、「まちづくり」「まちおこし」に有効であるなら、そういう地域でも可能であるはずだ。しかし、いまや東京での「成功」は、かならずしも疲弊した地方のモデルにならない。それほどギャップが大きくなってしまった。もはや、おなじ日本とは思えない。

地方をウロウロしたあとは、そういうことを強く感じる。ひとがいない、カネがない疲弊、そこからどう脱却するか、そういうところで「まちづくり」「まちおこし」という言葉が使われる。

話は、そのことじゃない、「まちづくり」「まちおこし」に真剣な知人が少なからずいる。ちょうど6月ぐらいに、そういう「民間」の活動に対して、国や地方公共団体からの予算配分が決まって動きだしている。「食」がらみも、少なくない。いま「まちづくり」「まちおこし」に、「食」は必須の項目なのだ。とくに、年寄りが多くなっていく地域で、若いものがいないとできない産業をおこすより、「食で観光」というセンはかなり有効になっている。

そういうことを、その地域にいないで、しかも東京ではない、こうして埼玉から見ていると、おかしなことに気づく。というのも、、「まちづくり」「まちおこし」のたいがいは、国内市場それも東京のような大都市のひとが標的なのだ。それは、トウゼンといえる。そこにしかひともカネもないからだ。

だけど、全国の都道府県レベルから市町村レベルの自治体までが、おなじ標的でやっているということは、ようするに共食い、そしてすぐ潰しあいになる。こうして、税金が投入されながら、共食い市場が広がっている。ちょっと、コワイ状況だ。しかもトウゼン、大都市の連中は、そんなことは無関心であり、むしろ地方から「お客様」「先生」とおだてられ、東京で何かやって地方からひとを集めたぐらいで、いい気になっている。

ま、とはいえ、その東京だって、たいがいは共食いで生きているから楽ではないのだが。

話は、そのことじゃない。もっと、国境や業界を意識しない、ファンキーなビジネスを展開したいということだ。もちろん、すでにやっているところもあるけど、もっともっと、だ。そうでないと、共食いで、予算を使いながら疲弊が残る悪循環が続く。それはもう、ながいあいだ「閉塞の時代」として続いているのだけど、共食いからの脱却へむかうプロジェクトは少なすぎるし、東京のような有利なところのひとほど、もっとそれを追求するべきじゃあないかと、思うわけだ。

みながレトロとしてふりかえる時代とくらべたら、たとえば80年代初頭とくらべても、都内の駅や役所の各種案内には、日本語のほかに英語とハングルと中国語が、アタリマエになった。

ときどきこのブログで話題にしている「やどや」。左←サイドバーにある、「YADOYA Guesthouse」「旅人文化ブログなんでも版」の主体は、WGという小さな会社だ、コアメンバーはおれを含めても4人。でも、やれることはあるし、ここは世界中から、ひとを集めている。あるいは、ドジをやって儲けをだしていないが、海外にモノを売ることもしている。海外旅行が簡単になった、輸入モノがあふれている、ということは、こちらからむこうへモノを売ることも、むこうからひとを呼び込むことも、20年前とくらべても容易になっているということなのだ。

もちろん吹けばとぶような零細のプロジェクトだけど、いまやっていることが、少しでも閉塞からの脱却へ、少しでも国境や業界を超える方向へと、思い切って打ち込んでやることがカンジンなのだ。

カネを使いながら疲弊する国内共食い市場だけでは、カナシイ。いまや、駅や役所の各種案内ですら、日本語のほかに英語とハングルと中国語が、アタリマエになっているのだ。

と、こうして、書くことで、うふふふふふ、いま考えているプランを、一歩すすめる決意を固めるのだった。

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2008/07/15

早朝、故郷から電話。新潟日報の記事。

7時ごろ電話が鳴っておこされた。でると声でわかる、故郷の同級生クボシュンさん。「夜中遅くまでおきているひとに朝早く電話して申し訳ないの~」と。地方紙としては有力無比名声堅固天下の朝日読売なんのその??の、今朝の新潟日報に、おれがデカデカ載っていると知らせてくれる。

掲載はまだ先かと思っていたが、これはおれの都合もあって、先月から2回に分け、合計4時間ほど取材や撮影があった。「心ふるさと 首都圏の県人たち」というタイトルで、新聞1ページの約半分、全8段の記事。

生い立ちから、これまでの人生をインタビューされたのだが、変転が多いうえ、「大衆食」や「生活料理」など、おれが関わってきた「食」は、ごく普通のものなのに、わかりやすく説明するのが、けっこう大変なのだ。日本は、普通のことほど、普通ではないのだなあと、あらためて思ったり。

記者は、30歳前半と思われる女性で、書籍資料はもちろん、Webに公開されている、おれ関係の資料をつぶさに読んでいて、アイマイがないように、ていねいにつぶしてきた。食に関するインタビューというと、予定調和のセンにそった質問が多いのだが、報道部の記事のせいなのか、食というより「シゴト」や「人生」が対象のせいなのか、それとも記者の気質もあるのか、ナアナア予定調和のセンは一切なく、また「ふるさとに対する想い」に誘導されるような質問もなく、さばさばとし、その仕事に対する誠実な態度が好ましかった。「田舎者論」を考えたり、ときにはお互いの個人的な興味に脱線しながら、楽しいインタビューだった。

記者の突っ込みに、どれだけ正確にこたえられたか、また理解いただけたか不安は残るが、それは毎度のことで、とくにおれは酒が入らないと話がニブイし、どんなふうにまとまったか楽しみだ。

きょうは、来月あたりか?10回に分けて、新潟日報の生活欄に連載になるコラムの締め切りで、ま、苦労しながらも、なんとか10回分をまとめて仕上げ、昼ごろメールで送った。なんだか新潟日報な日だ。

六日町の万盛庵へ行って飲みたくなった。

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ブログ書くのは習慣。書かなくたって読まなくたって死にはしない。

タバコを、やめる決意はしなかったけど、吸わなくなったのは、たしか45歳、急性肝炎で入院したときだった。
1988年ごろ?
コンニチのように、横暴な嫌煙家がはびこっていない、大らかなよい時代だった。
空をとぶパラセーリングの入門合宿に申し込んで、行く直前だった。救急車で病院へ。
そのまま山のテッペンからパラセーリングをするチャンスを失った。
先日、白馬に泊まったとき、八方尾根の上からやっているやつがいた。
あれをやりたかったのだ。
あのとき空をとんでいたら。
あのとき空をとんでいても、このおれは、たいしてかわりはしなかったさ。

ほぼ一か月入院、禁酒禁煙。禁酒も禁煙もつらくなかった。肉体が欲しがらなかった。

退院は10月20日ごろだった。
汗が出るほどじゃなかったが、さわやかな暑さ、ビールが飲みたかった。
退院したらビールをのむぞ。想いがつのった。
病院の朝食を食べて、最後の診察や退院手続き、11時すぎに病院を出た。
おおっ、解放感。そりゃ、ビールだ。そのまま新宿の靖国通り地下街にあったビアホールへ。
そのうまかったこと。白い布が初潮の血で染まるような。って、そんな表現があるか。古いな。
乾燥した砂漠に水を差したように。
だけど、タバコは吸いたいと思わなかった。
そのまま。
10年後ぐらいに、タバコを吸う夢を見たが、タバコはなかったから、そのまま。

ようするに、なんでも習慣なのさ。
めし作るのも習慣。食べるのも習慣。クソするのは習慣というより生理だ。でも早めし早グソは習慣。

テレビ見るのは、まちがいなく習慣。
テレビ見ない習慣がついたら、旅先でテレビがあっても見ない。見たいとも思わない。
ブログだって、そうだ。
ブログでひとを釣って得をしようというコンタンがないなら、ブログを書くのは習慣にすぎない。
書かないでいると、書かないですむ。
ブログ書かないボクは美しい。
とも思わない。
ただ書かなくても、時はすぎてゆく。困らない。

毎日よんでいるひとのことを、どうしてくれるんだって?
けっ、頼んで読んでもらっているわけじゃねえや。
それこそ習慣で読んでいるだけだろ。
このブログがなくなっても、死ぬわけじゃなし、悲しいわけじゃなし。
このブログを見る習慣を、ほかのブログにまわすだけ。

読まれている見られているという自意識過剰や陶酔とも無縁。

そして、ボクは、またブログを書いています。あなたの、ために。
ぶっ、屁一発。

気分爽快。

まもなく午前1時30分。ひさしぶりに酔いどれ深夜便。
あなたは、どうしてますか。

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2008/07/11

「縄文料理」と「がんづき」。

Kohun_ryouri01とにかく難儀なシゴトをコツコツやっている。やりながら、きのう、木村嬢に借りた、クウネルの本『私の作る郷土料理』の「がんづき」をパラパラ見る。このあいだの岩手県一関の取材のときから「がんづき」が気になっている。なにが気になるかわからないのだが、なぜか気になる。それに、なんだかもう少しで、大事なことがピンときそうだ。

先日の「四月と十月」古墳部の旅の2日目に、「縄文料理」をつくったのだけど、そのときの画像と、『私の作る郷土料理』の「がんづき」をつくる手順の写真を見ていると、もう少しでピンときそうなのだ。でも、いま、そのことを追求しちゃいられないから、とりあえず、忘れないうちに、こうして書いておくのだな。

ワレワレがつくった「縄文料理」は、いま『おつまみ横丁』が売れにうれている、料理研究家の瀬尾幸子さんがレシピをつくってくれた。瀬尾さんは、残念ながら旅には参加できなかったので、ワレワレは勝手に瀬尾レシピを改ざんして、つくった。

簡単にいえば、瀬尾レシピは「どんぐり入り縄文つくね」と「どんぐり汁」の二つをつくるようになっていたのだが、ワレワレはそれを一つにまとめてしまったのだ。

Kohun_hisui_dangoどちらもどんぐりの粉がベースなのだけど、「つくね」は、こねた材料を木の枝にまき、火にかざして焼いて食べる。「汁」のほうはまぜた材料を、汁に一口大に落として煮て食べるというものだ。ワレワレは、どんぐりの粉と、やまいもや卵やひき肉やくるみなど材料全部を一緒に水でまぜて、汁に一口大に落として煮て食べたのだ。汁には、しめじやイノシシ肉のつもりの豚肉などを入れ、とても豪華であった。そんな豪華なものをつくって、「縄文料理」が理解できるか!といわれそうだが、それがなんだかピンとくるものがあるのだな。やはり料理というのは手先のことだから、手を動かしてやってみるのが、大事なのだ。そのピンとくるものが、「がんづき」とも関係ありそうな気がしている。

ま、きょうは、そんなところで。
がんづきとは関係ないが、この本のイラストレーションは、この縄文料理をつくっている古墳部の川原真由美さんだ。
やはり関係ないが、がんづきの次のページは「ぼたもち」で、故郷の南魚沼市の小幡薫さんが載っている。小幡という苗字のかたはけっこういるのだが、どこの小幡さんだろうか。

画像は、上から、男はかまどのしたく、女は料理の準備と自然にわかれて、けっこう夢中になっていた。おれは、ほぼ何もせず、だがやまいもをおろすのにおろし器がないという決定的なときに、そんなものはこうすりゃいいんだヨとやってみせ、おどろかせ、存在感を示した。

どんぐりの粉は、韓国ではチヂミなどに現役で活躍しているから、それを手に入れた。

途中で鍋を買おうとしたがテキトウなものが見つからず、しかも高い。スーパーで見つけた、アウトドア用のアルミで出来た、やきそば炒め用の四角い深さ5センチほどのフライパン状のものを買った。このほうが熱のまわりも早く煮立ち、煮あがりもよかった。ただし火の台が、安定していなくてはいけない。
Kohun_ryouri03

標高1000メートル近くのキャンプ場で、こうしてきできた、縄文だんご汁を紙カップにとっては、冷たい水で冷やした地ビールを飲みながら、うがうがうめえうめえと縄文人の気分で食べたのだった。

瀬尾レシピは、たぶん次号の「四月と十月」に掲載されるでしょう。


関連
2008/05/16
「がんづき」と「自己完結型地産地消」と頑迷固陋の危機感。

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納涼BOYZ飲み会愉快泥酔記憶喪失。

きのう。木村嬢提唱?チン幹事の納涼BOYZ飲み会。の前に、Tムラと浅草で会う予定を池袋ジュンク堂に変更16時半、ロクデナシの資料を返し、となりの路地のやきとんで飲む。何年ぶりかの、レバカツを食す。チューハイ3杯で、よいこんころもち。18時半ごろわかれ、ビックカメラ前へ。モグモグ18時50分待ち合わせが、2人とも早く着いたので、おピンクゾーンの焼酎呑み屋へ。

まずは生ビールで、ひさしぶりのモグモグ嬢とカンパーイ。やがて木村嬢、そのあとチンくんあらわれ、つぎつぎカンパーイ。チンくんとは、このあいだ「わめぞ」月の湯で顔をあわせているが、一緒に酒飲むのは、4年ほど前に大阪は曽根崎あたりで、おれがフラフラ入った飲み屋でグウゼン出くわして以来だ。あのあと上京したチンくんは、東京の出版界の泥水を飲んで生きている。そのチンくんが木村嬢と出会って、この飲みになったのだから、東京は広いようで狭いというか。

ま、銀杏BOYZは飲みネタぐらいのつもりだったが、銀杏狂いのモグモグ嬢とチンくんはさすがにバカで、盛り上がる。しかし、チンくんはまだ26歳とは、若い。もう30近いだろうと思っていたが。たしかに、そのトシで、みなが期待するのは無理もない才能。ま、おおいに期待しよう。

とにかく、おれは飲んでから行ったので酔った。酒豪モグモグ嬢は、本日朝からダブルで仕事が入っているとかで、ビールだけで自重気味。おれはビールのあと焼酎、大島に帰った一円大王の焼酎、まいどのことながら途中から記憶がアイマイに。時間がたつのが早く、気がつけば23時で帰らなくては。池袋駅で、木村嬢チンくんと別れ、モグモグ嬢が地下鉄の改札に入ったあたりから、記憶を完全に失う。気がついたら、朝、パソコンの前の畳の上で、パンツいっちょうでゴロ寝していた。

たいがいの話はおぼえていないが、たしか、木村嬢は「わめぞ」に引っ越して欲求不満が解消されたようなことを言っていたな。けっこうけっこう。とりあえず、いじょ。BOYZネタ、なかなかおもしろい、またやろう。

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2008/07/09

酒を避け難儀にむかうこともある。

難儀なシゴトが二つ。だけど、きょうは2008/06/26「やや疲労で、2時間インタビュー。」の続き、撮影が以前から決まっていたので、新聞社の方と約束の14時に新宿西口思い出横丁へ。

チョイと早めに着いたので、小田急ハルク1階のアウトドア用品の売場をのぞくと、改装のためバーゲン中。いくつか欲しい物があったから、見ると、かなり安くなっている。が、しかし、サイフにカネがない。おれはカードを持たない。待ち合わせの時間も迫っている。仕方ない、Tシャツ1枚だけであきらめ、小走りで思い出横丁へ。1,2分遅れたか、すでに来ておられた。

3か所ばかりで撮影。終わって、落ち着いて話ができる喫茶店ということで、中央口のらんぶるへ。30前半ぐらいの女記者だが、こういう1960年代のままの空間は、めずらしいらしい。インタビューのなかみに関係ない「純喫茶って、なんなのか」で、しばし盛り上がる。

16時ごろ終わり、中野の「東京インフォメーションセンター・やどカフェ」OPENの日なので、チト早めだが行こうと思い、フト考えがとまる。難儀なシゴトが二つ、どうするか。行けば飲むに決まっている。明日は、浅草と池袋で飲酒がある。今夜中に少し目鼻をつけておきたい。「やどカフェ」のほうは、今日は、まかせて別の日でよいだろう。

帰ってきて、酒も飲まずに難儀と取り組む。タイトなところをクリアし、明日飲んだくれても、なんとかなるだろうと思われるぐらいの目鼻がついた。

23時30分。いまから飲むのだ。やれやれ。

しかし、念願の「やどカフェ」OPENは近年ない快挙でうれしい、めでたい。まりりんのがんばりだ。「いつまでたっても7号」と不満を述べていたから、「6号」にしてやるか。これからは、やはり、女と組んだ女衒ファンキービジネスがいいかもなあ。

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2008/07/08

糸魚川。そば処泉屋から日本海の夕日。「旦那衆」について考える。

Kohunbu_itoigawa_kamonoiきのうのエントリーに、いのけんさんからコメントがあった。以前から、弊ブログをご覧のかたはご存知だと思うが、いのけんさんは、たしか一昨年に東京の大学を卒業したのだけど、在学中は、いわゆる「闇市」の研究をやり、吉祥寺のハモニカ横丁を卒論にまとめた。その卒論は冊子にもなり新聞各紙にも紹介された。知るひとぞ知る存在だ。

2008/06/25「『city&life』美味しいまちづくり、岩手県一関、青森県八戸。」に紹介した、2005年76号特集「路地・横丁空間からの都市再生」で一緒に仕事もした。

その彼が、新潟県の上越地方の出身と知ってはいたが、糸魚川と因縁があるところまでは知らなかった。しかも、ワレワレがウロウロした、その地域だ。なので、彼のコメントをここに転載しながら、さらに糸魚川のことを書いておこう。

いのけんさんのコメント。………………………………………

いつも楽しく拝見させていただいております。
糸魚川には祖母がいるので、よく行くのですが、
私もいいところだと思います。

蕎麦屋さんの近くの加賀の井酒造さんは、
経営者が大資本になる形で復活しております。
エンテツさん好みのお酒でしょうか??

ちなみに、この写真のお蕎麦屋さんの隣の隣が、
実家の家業を営んでいるところだったりします・・・

おれのレスポンス。………………………………………

どーも、ごぶさたしています。
糸魚川、いいところですね。うまい食べ物があるし、飲食店の平均レベルもよさそうだし。

加賀の井にも寄ってみました。大資本参加でも残ってよかったと思います。あの建物だけでも価値あるし。

加賀の井の酒は、今回も飲みましたし、何度か飲んでいますが、よい酒です。私の野蛮好みからすると、ちょっと上品にまとまりすぎですが、よい酒にはちがいありません。

そういえば蕎麦屋の隣の温泉銭湯の「滝の湯」は、もとの古い名前が「井上浴場」とありましたが、もしかしていのけんさんと関係あり?

………………………………………

この蕎麦屋は、「そば処泉屋」という。きのうのエントリーの下段(下から二番目)にも、画像がある。

このあたりは、糸魚川の目抜きだが、江戸期から続く「加賀街道」でもある。「加賀の井」という酒は、かつてはたいがいの新潟県人が知っていた、新潟県で最も古い歴史を有する造り酒屋だ。350年前創業といわれる。この酒蔵の建物は、越前加賀候の本陣としても利用されるようになった。そんなことから越後の糸魚川でありながら、「加賀」の名がつく酒蔵になった。という話だ。加賀の井酒造は、一昨年あたり経営危機におちいり、大資本の傘下にはいった。

きのうのエントリーの最下段の画像の雁木だが、おれはこんなに頑丈で立派なつくりの雁木は、初めて見た。この筋向いぐらいに、やはり頑丈で立派なつくりの雁木のある加賀の井がある。その並び、すぐ隣ぐらいに、「そば処泉屋」があるのだ。

縄文遺跡見物などのあと、市内にもどったのは18時近くだったとおもう。それから、ウロウロしながら、路地の奥に、なんだかよさげな赤チョウチンを見つけたりして、この雁木の通りにたどりついた。後日、画像を掲載するかもしれないが、この雁木と家屋がつらなる風景をみれば、ちかごろハヤリのレプリカ・レトロなんぞは、似ても似つかぬニセモノだ。

Kohunbu_itoigawa_sentouとにかく、ワレワレは「加賀の井」に寄って、酒は買わなかったが古い建物を鑑賞し、そして、「そば処泉屋」の前で、これはきのうきょうの手打ち蕎麦屋とはちがう、だいいち隣には銭湯があるではないかと、わけのわからんリクツもつけ、とにかく、この蕎麦屋に入ってみたくなり入った。その前に、牧野伊三夫さんは、銭湯の男湯の入り口をあけてのぞいていた(画像の左側に、その後姿が)。コラコラ、そういうことをしているから……という声が聞こえそうだった。

この銭湯は、いまでは「滝の湯」という温泉銭湯だが、以前の名前は「井上浴場」といったらしい。その古い表示が目立たないところにあった。

ともあれ、ワレワレが「そば処泉屋」に入ったのは、18時をすぎていた。入ってから、しばらく、その店内を眺め感嘆した。牧野さんは中庭のそばの食卓に座り、なでまわし、いまにも絵を描きだしそうだった。またもや、コラコラ、そういうことをしているから……という声が聞こえてきそうだった。けっきょく、食卓ではなく、囲炉裏をかこんで座った。

古墳部の旅の特徴のひとつは、食べ物の注文に時間がかかることだ。ほとんどガイドブックのたぐいを使わないし鵜呑みにしないかわりに、その場で、しつこく質問し検討し吟味する。で、まあ、やっと決まって、頼んだ。頼んで一安心というあたりで、このあとどうするか、やはり日本海に沈む夕日が見たいということになった。新聞で日没を調べると、19時10分。あと数十分しかない。

Kohunbu_itoigawa_izumiya02_2しかし、この人たちは急ぐということを知らない。牧野さんなんぞは、「粗忽者」といってよいほどなのに、急ぐことをしない。だから、目の前で電車が出発してしまう……という声が聞こえてきそうだった。もちろん、ちょうど残り5人前分ぐらいになっていた手打ちそばを食べた。ほかに、板わさや海苔わさ、やまいも、なんといっても、おかめ抜きが、もうどうしようもなくうまく、ビールに続き、おれと牧野さんは、冷やのコップ酒を飲んだ。

そもそも、おれと牧野さんは、味覚の好みがかなりちがう。あの北九州の食堂の取材のときだって、有山達也さんに、遠藤さんと牧野さんが押す店は、まったく重なりませんねといわれたほど違って、「激論」になったぐらいだ。ま、それぐらいちがってもトウゼンなのだけど、だから、2人で一緒に「うまい」と絶賛することはめずらしい。

そして、蕎麦湯が出たころには、もう日没時間だった。おれはココロのなかであせっていたが、だれも急がないアワテナイ。が、日没は待ってくれない。トツゼン一同あわただしくなる。そのように、いつもアラシはトツゼンやってくる。牧野さんが転がったりする。大急ぎで蕎麦湯をすすりながら勘定。

泉屋のおばさんが「きのうは、よい夕日でした、きょうもよい天気だから…」といいながら、海岸への最短の道筋を教えてくれる。それすら十分に頭に入らない急ぎよう。店を出てから、またもや誰かが聞きに引き返す。アワタダシイ連中だ。すぐ隣の「滝の湯」の角から路地に入る。細い路地を駆けるようにゆく。と、すぐ海岸が見えた。いや、その前に、食堂が一軒ある。こんな路地の奥に、とてもよさげな食堂があった。「あいざわ食堂」。おれは、アワテ急いで撮影する。みなは先に行く。

Kohunbu_itoigawa_yuhiああっ、雲がある、そこに、すでに太陽はかくれている。展望台のようなところに駆け上がる。日本海に沈む夕日は見られなかったけど、うまい蕎麦を食べたあとの日没のひとときを、のんびりアレコレ会話しながら満足感たっぷりにすごした。

そして、気になっていた赤チョウチンへ行き、さらに大人の夜の街へ繰り出し、あやしく夜は更けていくのだった。

おれは、この雁木の通りで、「まちづくりにおける旦那衆の役割」というテーマを、ふと思いついた。それは、岩手県一関を取材しているときから、気になっていたことだった。もう書くのがメンドウなので、そのことは、また後日。

「あいざわ食堂」は、3日目の4日に、みなで昼食を食べようと行ったが、休みだった。ほかにも混雑している食堂があった。こんどは、滝の湯に入ったり、このあたりでゆっくりしたい。

「そば処泉屋」を検索すると、「糸魚川のお蕎麦大好きそば店主が立ち上げたお蕎麦密着型Web」があった(クリック地獄)。その写真的ブログの2008年7月3日「飛ぶ」に……

昨日の午後7時頃
夕日が観たいと湯桶もそこそこに
糸魚川レインボーブリッジ(?)に向かわれた
5人のお若いお客様方

日本海の夕日、ご覧いただけたでしょうか。

……と、ある。おれだけ60歳なかばで若くないが、ワレワレのことにちがいない。


いのけんさんの「ヤミ市横丁研究所」…クリック地獄


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2008/07/07

糸魚川へ。思い出、ふらふら。

Kohun_kyoukouなにやら、帰ってきたら「トラブル」が待ちかまえていた。「トラブル」というほどのものではないのだが、笑ってすませておけばすむことも、キマジメに構えてしまうと「トラブル」になるのだなあ。おかげで、忙殺な渦中に。もっと、どっしりかまえて、おおらかに、いい加減に、ご気楽にいきましょうねえ。クレームや変更はアイデアの源泉。

ってことで、極楽トンボの、古墳部の旅を、少し細かに記録しておこう。

初日の2日、13時に糸魚川集合は、最短時間で行くには、大宮から上越新幹線で越後湯沢、ほくほく線経由特急はくたかで糸魚川というのがはやい。しかし、おれの故郷六日町から直江津のあいだは、大部分がトンネルで風情に欠ける。ということもあって、急ぐ旅ではないし、少し朝早くでればよいだけだから、長野経由で各駅停車を利用して行くことにした。

北浦和 7時35分~7時42分 大宮
大宮  7時52分~8時53分 長野(新幹線)
長野  9時23分~10時57分 直江津
直江津 11時57分~12時36分 糸魚川

長野から先、JRを利用するのは、30年ぶりぐらいだろう。列車は長野新潟県境にむかって登り、妙高高原を境に降る。むかし、妙高高原を起点に、妙高や火打に登ったり、スキーをした。それらの山々が車窓から見える(画像上、左が妙高、右の残雪のある山は火打)。

妙高に初めて登ったのは、高校2年の春だったと思い出す。1960年のことか。あのときのことは、なぜかよく覚えている。インターハイ登山競技の新潟県予選に、選手参加ではない翌年の正式参加に備えてのオブザーバー参加だった。

燕温泉に一泊し頂上をめざした。残雪の多い年で、たしか5月の連休ごろだったと思うが、燕温泉周辺も登山コースの沢も雪で埋まっていた。快晴だった。雪の沢を登りつめ、稜線に立つと、雪を蓄えた足元の勾配が先まで続き、そのままゆるやかになって若草色や濃い緑をのせながら、日本海に達している雄大な景色があった。その風景が強く印象に残った。まもなく、あれから50年になろうとしているのだと気づく。

新井と高田は、母方の祖父と祖母の故郷だ。祖父は、母が12歳ぐらいのときに亡くなったのだから、おれは知らないが、祖母は、おれが妙高に登った高校2年の冬に、六日町の病院で死んだ。おれは、小学校1年のときから、その祖母と一緒に住むようになって、夏休みや春休みに、たびたび新井や高田の祖父母の親戚の家ですごした。祖母が亡くなったあと、高校3年の冬、卒業して上京する前にも行き、それが最後になった。列車から見える高田の親戚があったあたりは、そのころのたたずまいのまま古びて、木造の雁木などは朽ちそうで寂しげだった。

直江津にむかって走る列車のなかで、中年の男たちが話していた。車窓から長野新幹線を北陸につなぐ北陸新幹線の工事が見える。このあたりにできる予定の新駅の名前が、決まっていないらしい。その名前について、やはり上杉謙信の居城があった「春日山」がよいとか、いっそのこと「上杉謙信」という駅名にしたらどうか、「いや、それじゃまんますぎる、春日謙信はどうか」といった会話をしていた。そのイントネーションというか、話し方が、むかしの親戚の人たちを思い出させた。このあたりは、おれの故郷の中越、あるいは北の下越とはちがい、京文化の影響を受けているという説もあるらしいが、おっとりやさしい。しかし、北陸新幹線が開通したら、この在来線はどうなるか。

直江津では1時間の待ち合わせだった。町へ出てみた。むかしの直江津は、大都会に思えたが、まるでちがっていた。簡単に食事するにも適当なところがなく、むなしく駅に引き返し、大宮で新幹線に乗ってから4本目ぐらいになる缶ビールを買って飲んだ。蒸し暑い昼。

北陸線に乗って、直江津から一つ目の谷浜駅は、海岸のすぐそばにある。その浜辺は、おれが小学1年の夏休みに、高田の親戚につれられて、生まれて初めて海水浴に訪れたところだった。そのとき仲よく遊んだ、同じ年のまたいとこの女の子の名前を思い出そうとしたが、ぼんやり表情は浮かぶのに、名前の記憶はもどらなかった。

谷浜と糸魚川のあいだを列車で通るのは初めてだ。親不知子不知とならんで有名な難所「つついし」の駅は、トンネルのなかだった。

糸魚川で改札を出ると、おれを呼びながら近づいてくる川原真由美さんがいた。去年の7月以来の再会をよろこびあう。

5分ぐらいで、大糸線の一両だけの列車が入ってきた。おととい書いたように、スソアキコさんと久家靖秀さんはいたが、牧野伊三夫さんはいなかった。久家さんが牧野さんの荷物を持っていた。そのおかしなおかしな顛末は、スソさんが「四月と十月」に書くだろう。ワレワレ4人は、しばし、再会をよろこびながら、牧野さんの「悪口」を楽しんだのだった。

駅前には、民宿「幸右衛門」のオヤジがクルマで待っていた。いったん「幸右衛門」へ行き荷物を置く。日本海のすぐそば、部屋からも日本海。オヤジは、とても身体のよく動くひとで、楽しく親切で、そして地元の言葉で半分もわからない。なので、しばらく、ワレワレのあいだで話題になった。

タクシーを利用するのだが、オヤジが駅まで送ってくれた。途中、ワレワレが遺跡や古墳を見て歩いていると知って、まわり道をして、北陸新幹線の工事現場で見つかった遺跡へ連れて行ってくれた。ちょうど、何人ものひとたちが発掘作業をしているところだった。このあたりは、遺跡だらけらしい。

駅からタクシーに乗り、長者ヶ原遺跡へむかった。

ま、とりあえず、こんなところで。

Kohun_sobaya
糸魚川は、また行きたい、また行くような気がする、まちだった。
Kohun_itoigawa_gangi

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2008/07/05

四月と十月古墳部「ヒスイの旅」から帰る。

Kohun_hisui_kaen四月と十月古墳部「ヒスイの旅」は、7月2日水曜日、新潟県糸魚川市に、13時現地集合で始まった。そして、昨夏古墳部北東北の旅の、青森県三内丸山遺跡で見た、びっくり大きなヒスイの故郷、姫川を中心に活動した。

おれは、大宮から新幹線で長野、信越線各駅停車に乗り換え直江津、北陸線各駅停車に乗り換え、12時35分ごろ糸魚川に着いた。7時半ごろ京浜東北線北浦和駅を出発したから、途中、直江津での乗り継ぎ約1時間待ちを入れて5時間の旅ということになる。

糸魚川駅には、前日新潟県長岡にいて、そこから来た、川原真由美さんがすでに着いていた。東京から中央線大糸線を乗り継いで来るはずの、スソアキコさん、牧野伊三夫さん、久家靖秀さんを待つ、というほどのこともなく、5分ぐらいで、大糸線のたった一両の車両が着いた。しかし、川原さんがメールで新宿での乗車を確認している牧野さんの姿がない。久家さんが牧野さんの荷物を持っている。ナニゴトか波乱含みの始まりだった。

ま、そのように最初から13時現地集合は崩れたのだけど、無事に盛りだくさんの旅は終わった。とりあえず簡単に書いておく。

1日目は、いったん海岸線に建つ民宿「幸右衛門」に荷物を預けたあと、タクシーで、縄文中期(いまから5000年~3500年前)の、ヒスイ工房跡なども発見された、長者ヶ原遺跡へ。考古館とフォッサマグナミュージアムを見学。この遺跡は、東京ドーム3個分の広さがあって、そのうち発掘調査がすんでいるのは、わずか3%でありながら、膨大な出土品があるとのこと。だからかどうか、陳列はずいぶん大らかで、最初の画像がそうだが、レプリカではないホンモノの火焔土器などが、ケースに入れられず手でふれられるところにある。

Kohun_itoigawa遺跡とフォッサマグナミュージアムをたっぷり見学のち、近くの日帰り温泉へ。牧野さん合流。市内にもどり、散策あんど夕飯所さがし。いい蕎麦屋を見つけ、食べ飲みしているうちに、日本海に沈む夕日を見ようということになり、日没ギリギリに駆けて海岸へ。のち、路地の奥に見つけた飲み屋へ、地元魚を食べながら飲む(酒はトウゼン加賀の井)。さらに大人の夜の街へ繰り出し、あやしいネオン街のなかの一軒。ほかの客がいないから、貸切状態で、ばあさんママがすすめるままにオールド一本とって、カラオケしまくる。さらに、民宿にもどって、飲む。いつ寝たか、記憶なし。

Kohun_hisui012日目。民宿で朝食後、レンタカーを借りて、姫川をさかのぼり小滝川ヒスイ峡へ。このあたりは、日本列島と日本人の成り立ちに深く関わっている地帯。断崖のヒスイ峡に、口をアングリあけておどろき、むかしの火山活動かなにかでできた池があるキャンプ場へ。

参加できなかった、瀬尾幸子さん作成のレシピにしたがい、どんぐりの粉をつかった「縄文だんご?」「縄文ハンバーグ?」のようなものをつくり、食べる。縄文人は、こんなにうまいものを食べていたのか。いや、おれたちの料理の腕がいいのだ。ついでに縄文人になった気分で、貸しボートをこいでのる。大糸線平岩駅そばの温泉「朝日荘」に泊まる。夜、酒飲みながら、トランプ。賭けに熱く燃えあがり、午前1時過ぎまで。

3日目。旅館で朝食して出発。おれは行けなかった、昨年末の古墳部出雲の旅と因縁深い奴奈川姫を祭った一宮を詣でたのち、寺地遺跡。糸魚川市内にもどりレンタカーを返すと、解散時間が近づく。駅前の喫茶店で、みなで大急ぎでカレーライスを食べる。

おれは、どう帰るか決めてなかったが、みなが乗る大糸線13時18分発の南小谷行きに、とりあえず白馬行きの切符を買い一緒に乗る。南小谷に着くと、すぐ新宿行き特急あずさに連絡していたから、またついでにと一緒に乗り、白馬で別れて降りた。15時ごろ。

白馬では、眺望のよい安くて満足の民宿を知っている。山田屋旅館。そこに泊まりたくて降りたのだ。駅で番号を調べて電話すると、もちろん宿泊OK。着いて、すぐ風呂に入って(24時間入浴可)、ビール飲んだら爆睡。17時過ぎに目が覚め、散歩に出る。残念ながら雲が発達して、山はよく見えない。この民宿はおかずが多いから、ビール1本にポン酒(白馬錦)をコップで2杯、ゆっくり飲んで、爆睡。

Kohun_hakuba4日目、きょう。朝、目が覚めて、部屋のカーテンをあけると、おおっ、見えたぞ、白馬連峰、後立山連峰が、ゼーンブ見えるではないか。白馬、杓子、白馬鑓、天狗、唐松の稜線、五竜、鹿島鑓。この20年間のうちに何度か行って、そして見たくてしようがないのに、ほかは晴れてもその頂上だけは雲がかかって見えなかった、五竜岳も見えた。おれがイチバン好きな、厳しい武骨な山。来て泊まった甲斐があった。(画像は右のピークから、白馬、杓子、白馬鑓、天狗。五竜の画像は、後日)

そして帰りは、白馬から特急バスで長野へ出て、小諸の揚羽屋に寄って、食べて飲んで酔って帰ってきたのだった。よく動き、よく食べ、よく飲んだ。

とりあえず、こんなところで。
メールなど、いただいていますが、返信は、チトお待ちを。

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2008/07/02

ちんけなままに。

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2008/07/01

いつでもどこでも飲みたい酒。けっこう好きな罪悪感。

『ミーツ・リージョナル』を郵送でいただいた。肉姫様や木村衣有子さんの心遣いだろうか。ありがとうございます。

今回の特集は、表紙に大きな活字で「今飲みたい、街の酒。」

「動いている酒事情を全力でレポート!」
「いよいよ、日本酒の時代。
 ビオワイン、浸透中。
 キリッとシェリーは夏の酒。
 ゆる酒、マッコリ、夏カクテル、
 おバカ酒、家酒とアテ…and more!」
と、ミーツらしい踊る言葉が、踊る。

で、まあ、木村さんの連載「大阪のぞき」を見た。第四回 純喫茶アメリカン。
おお、なんだか、出だしが、木村さんらしい文章の調子、いいねえ。こうなんだよね。

「第一印象は、きらきらしていた。意気揚々と出かけたい、ハレの日の喫茶店だと思った。」

こういう、なんてのかな、ナタで竹を割るような文章、というか、いいんだなあ。おれは好きだけど、そのう、おれがほめると、たいがい迷惑になるから、これぐらいにしておこう。

にしても、ほめたあとに書くのだが、「いかにも正統派」「いかにも純喫茶らしい正統派」という表現があって、なにからなにまで「正しい純喫茶」にこだわっている「正統派の純喫茶」ということなんだろうけど、この短い文章のなかで、こうした似たような表現が重なると、なんてのかな、チョイと引っかかった。

で、が、しかーし、そしてまたほめあげるのだが、木村さんは、2008/06/27「『手みやげを買いに』『兵庫のおじさん語録』」に画像だけ載せた、京阪神エルマガジン社 ミーツリージョナル別冊 東京編『手みやげを買いに』に、「木村衣有子のひとり土産〈塩もの篇〉」「木村衣有子のひとり土産〈粉もの篇〉」を書いている。

その〈粉もの篇〉に、こういう表現がある。

「お店のパンフレットをみると、国産小麦粉、有精卵、オーガニックシュガーなどを使っているとある。私はそういうことに過度にこだわりたがる質でもないが、食べ終えた後に一片も罪悪感を残さない甘さなのは、たしかに材料のおかげなのだと思う。」

この「食べ終えた後に一片も罪悪感も残さない甘さなのは、たしかに材料のおかげなのだと思う」という表現にシビレた。「食べた立場」で書くなら、こういう表現の工夫が必要だよなあと思った。お店が、いい材料を使っていると説明するのはアタリマエで、その受け売りじゃ、「食べた立場」にならんわけだからな。だけど、受け売りが多いのだ。

ま、おれのようなものが人様の文章表現について、アレコレ書くと「おまえには、そういうことを書く資格がない」テナことをいうひとがいるらしいのだが、文章も料理も、「資格」で批評するわけじゃねえからね。

読んだり食べたりすれば、そこに自ずと批評が発生するのが自然だ。それを、誰々という権威がいったことだから正しい、マスコミに登場するような高度に能力があるひとがいったことだから正しい、そういうひとじゃないと批評の資格がないかのような考えこそ、オカシイのだ。

そりゃそうと、先日、酒を飲みながら、この「一片も罪悪感を残さない」というところを思い出した。そして、おれは、「罪悪感を残さない」より、「罪悪感とすごす」「罪悪感とつきあう」ことが、けっこう好きだと気がついた。どうりで、安いマズイが好きなわけだ。難しい人間も嫌いじゃない。

その酒のことについては、いまは、とにかく忙しいので書かないが、つまりは、そういうことまで考えさせる力が、この木村さんの表現にはあるということだな。

ま、「文章力」といってもイロイロだが、おれは罪悪感を残す文章力をめざすとしよう。ぐふふふふふ、罪悪感のない人生なんかツマラナイ。

しかし、罪悪感を感じるほどの二日酔いはないな。まだまだ飲み方が足りのないのか。

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横浜慕情。

Yokohama_isikawa05午前1時過ぎ。そんなに酔ってないと思うが、今夜のヨツパライ深夜便は、きのうの「横浜ドヤ街事情」の続きのようなもの。

チョイと疲れているかんじなので、画像をメインに簡単に記憶を残しておく。

画像、上から。木造2階建てのドヤは、まだところどころ残っている。「美奈登荘」は、きっと「港荘」に情緒を加えたのだろう。港湾労働者を優しくあたたかく迎えようという姿勢かもしれない。木造2階建てに似合う名前だ。
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山谷にも「埼玉屋」という名前の食堂や旅館があった。いまでもあるとおもう。そこと関係あるのかどうかしらないが、ここも「埼玉屋」。「埼玉」というと「ダサイ」ということになったが、それは中流意識「市民」が陥った錯角で、つまりは気どらない庶民的な気安さであるのだ。ま、お高くとまって、ダサイと言いたいやつにはいわせておけばよい、つまらん幻想のコンプレックスに思い悩むより、堂々と「ダサイ」看板を掲げて矜持を持って生きることこそカンジンだろう。どこもかしこも東京とおなじオシャレやセンスになる必要はないのさ。おれは埼玉に住んで10年ちょっとだけど、埼玉には埼玉のマッタリしたよさがある。「埼玉屋ぁ~」、って花火でもあげてほしい。
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横浜橋商店街は、料理研究家の瀬尾幸子さんが、会うたびにカンドー的に絶賛していたところ。今回、初めて行ったが、なるほど、絶賛に値する。商店街の規模もそうだが、魚屋や八百屋の充実は、東京では見られない。しかも、その一角には、大衆演劇の三吉演芸場があって、近くの本屋の店頭には、『演劇グラフ』の表紙がぶらさがっている。かといって、浅草のような歓楽街とはちがう。生活の場のなかの大衆演劇なのだな。

この商店街は、古くもなく新しくもなく、人びとの生活の歴史と普遍をつないでいるようだった。
Yokohama_isikawa09
北九州の市場を思い出した。こういう市場の近くに住んだら、どんなにシアワセかとおもうが、人生はままならない。かといって、自分のウチの近くにつくるといっても、そうは簡単につくれない。だから、簡単に捨てたり壊したりしてはならないのだな。そして、古いのがイイか新しいのがイイかではなく、つなげて更新していくことを心がけることだろう。生活とは、そういうものなのだ。今日は昨日を更新しながら生きるのであり、今月は先月の更新であり、今年は去年の更新なのだ。

また角打ちやモツ肉を楽しみながら、歩いてみたい。


古墳部の旅の詳細な計画がファックスで送られてきた。楽しみだ。

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