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2008/07/20

「なぜか、いやに鮮明な「故郷」の映像」

「dankaiパンチ」8月号の特集は「スタジオジブリ大研究」だが、おれはテレビがないこともあって、あまりジブリ作品をちゃんと見た記憶がないし、「郷愁」のおぼえもない。だけど、たいがいは郷愁を感じるものであるらしい。

かくて、浅羽通明さんが「宮崎駿、郷愁の秘密」を解剖するのだけど、浅羽さんは、宮崎作品に「懐かしさ」を感じるけど、それは「最近の昭和ブームがいう郷愁とは、幾分は重なりつつも微妙にずれる」と書き、とくにそのずれの部分を解明していく。そこがおもしろいので、その部分だけメモしておく。

若いやつら、つまりその当時この世に存在していなかった連中が、昭和30年代に「懐かしさ」を感じる話を、ときどき聞くが、そのことにも関係する。つまり宮崎作品には、自分が体験したことのない光景などがたくさんあるわけだけど、それを見て「懐かしさ」を感じるのはナゼなのか、ということなのだ。

浅羽さんは、星新一さんのエッセイ『きまぐれ博物誌』から引用する。『郷愁の対象となる、その故郷の光景。それはなぜか、いやに鮮明である。ふしぎな現象といえよう。私はかつて、これを「双眼鏡をさかさにのぞいた眺めのように遠くなつかしく、静かに充実している」と形容したことがある。だれもがそんなふうに頭に描くのではないか。/ 現実に存在していない世界を、頭のなかに鮮明に描きあげる。それが郷愁なのだ』『故郷があるから郷愁がおこるのではなく、郷愁があるから故郷が作られてしまうのだ』

文学や映画や、さまざまな知識や記憶の断片が動員されて、「故郷」が作られる。

なぜそんなことをするのか。そこで浅羽さんは、「宮崎駿監督が一九七九年、『月刊絵本別冊」でアニメーター志望者向けに記したもの。題もずばり「失われた世界への郷愁」」から引用する。『多くの人が、自分の置かれている環境を不幸せだと思わなくても、なにかみたされぬ部分があるはずだ』

そして浅羽さんは、こう述べる。「星新一は、人類滅亡といった悲惨な空想すら「故郷」足りえるとした。耐え難い人間関係に比べれば、そんな地獄絵のほうがまだ爽快感があったりするからだ。宮崎駿も、「ミドルティーンの年代において『アンネの日記』が幅広く読まれるのも、ああいう状況そのものがうらやましいという気持ちがあるからだろう。極限の状況の中で緊張して生きてゆく──そういう人生に憧れを抱く」と指摘する」

おれは、ここで、いま小林多喜二の『蟹工船』がブームというか、売れていることを重ねて考えた。

とにかく、「耐え難い人間関係」「なにかみたされぬ部分」が郷愁へ向かわせることがあったとしても、すべの人が、そこから郷愁へ向かうわかじゃないだろう。そのへんは、高畑監督へのインタビューで構成された「高畑勲が昭和を描く理由」によって埋められる気がした。そのようにして、宮崎監督と高畑監督は2人で、日本人の「耐え難い人間関係」「なにかみたされぬ部分」をわしづかみにしてきたことになる。、

おれは、ここに書いてある高畑勲さんのほうにより共感するのだけど、それは単に、おれの記憶力があまりよくないということなのかもしれない。本を読んでも映画を見ても仔細はスグ忘れる、むかしのことなど細かく覚えていない、きのうのことだって忘れてしまう。ボケ老人には、記憶も郷愁も希薄だ。するってえと、もしかすると、不幸にして記憶力がよすぎるひとたちが、郷愁に向かうのかもしれない、と思ったのだった。

そういや、おれのまわりで、若いのにむかしのことをおれよりよく知っている連中は、記憶力がよいようだ。なーんだ「郷愁」って、ただそれだけのことか。いや、ま、高畑さんの記憶力が悪いってことじゃないけど。

閉塞から脱出するには、記憶力より想像力だ。

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